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隆聖 ⑥
「いいか、落ち着いて聞いてくれ。充が路上で意識を失って倒れた。倒れた時に頭を打って出血している、そのまま救急車で運ばれた」
汗が止まらない。
身体中の毛穴が開いて、これでもかと流れ続けている。
心臓はどくどくと鳴って、壊れてしまいそうだった。
いやだ嘘だ。
頭の中がそればかりで、上手く言葉が出てこない。
「まえ…前にも…日置さんは、急に立ちくらみみたいな感じになったことが……」
「ああ、それかもしれないと思ったが、救急に連絡をしたのが、道彦の母親なんだ。道で偶然会ったらしい……。遠くに住んでいるのにたまたまこちらに来て……クソっ、こんな偶然が……」
「ということは…恋人の母親を見て……急に現実に引き戻された」
「ああ、全部かは分からないが、築いていた防御が崩れて一気にショックが襲いかかった……」
日置は主治医のいる病院に運ばれた。
移動中に雅人が秘書に連絡をして、命に別状はないということは分かった。
それでも怖くて怖くてたまらなかった。タクシーが到着するまでの時間、これが現実なのか、自分が生きているのかさえ分からないほど頭が真っ白になっていた。
雅人になかなか連絡がつかなかったらしく、病院に着くと頭の怪我の処置と、ほとんどの検査は終わり、日置はベッドに寝ていた。
たくさんの点滴に繋がれて頭にはぐるぐると包帯が巻かれていた。
思わず目の前が歪んで、飛びついて触れようとする俺を雅人が止めた。
「落ち着け、まず話を聞こう」
前もこういう場面に立ち会っているからか、雅人は冷静だった。
いや、自分より混乱している人間がいるとしっかりしないといけないと思うのかもしれない。
雅人の手もわずかに震えているのが分かってしまった。
医師の説明によると、頭の怪我の方は出血が多かったが、問題はないとのことだった。
まずはホッとしたが、やはり心の方の負担がハッキリしないそうだ。
このまま目を覚さない可能性も視野に入れてください。
そう言われて足元から崩れ落ちた。
「それ可愛いですね、クマさんですか?」
窓辺に置いた熊のぬいぐるみを見つけた看護師さんが声をかけてきた。
病院のすぐ近くの玩具屋で出会ってしまった。
茶色いふわふわした毛のテディベアで、つぶらな瞳が好きな人を連想させて、思わず手に取ったら戻せなくて、そのまま一緒に来ることになった。
「窓辺がなんだか寂しい気がして、日置さんは花が苦手なのでこれがいいかなって」
「そうなんですね。すごく可愛いから、目を覚ましたらきっと喜ばれますね」
濡らしたタオルで体を丁寧に拭いてから、看護師さんはまた検温に来ますと言って部屋を出て行った。
「…そうかなぁ…喜んでくれるかな」
ねぇ日置さんと呼びかけて白い頬に触れた。綺麗に拭いてもらったのでサラサラとして柔らかかった。
日置が路上で倒れてから今日でひと月になる。
毎日仕事終わりと、休みの日は一日中側にいて日置が目覚めるのを待っている。
叔父の雅人よりも多く、あまりにも頻繁に顔を出すので、すっかり顔を覚えられてしまった。
入院当初はたくさんの管に囲まれていた日置も、今では点滴のみで頭の包帯も取れた。
頬から手を滑らせて、おでこに残った傷痕に触れた。
何針か縫ったので痛々しい痕が残っている。
体の方は良くなっているが、心の方の問題が大きく、いまだ目を覚ましてくれない状態が続いていた。
先日は日置の妹だという女性が見舞いにやって来た。
薄茶色の目がよく似た可愛らしい人だった。
少し前に結婚したらしく、招待状を送ったが、返事がなかったのだと話してくれた。
自慢の兄だったから、兄の告白を聞いてショックを受けた両親と一緒に冷たく接してしまった。
そのことを謝りたかったけど、勇気が出なくて時間だけが過ぎてしまったそうだ。
こんなことになっているのなら、もっと早く来るべきだったと涙を流していた。
今さら遅すぎる、日置さんは孤独に耐えていたのに、この状態で今さら……。
言いたいことはたくさんあったが、彼女も結婚したことで自分の考えを見つめ直したのかもしれない。
俺がとやかく言える立場ではないので、話だけは聞いて日置が起きたら伝えますと言った。
会社の人には伝えていないので、他に見舞いに来る人はいなかった。
そして俺だが、思いがけず時間ができたので、ずっと日置に付いていられることができそうだ。
赤くなって皮がめくれた自分の拳を見て、思わず笑ってしまった。
先ほどの看護師さんは何も言わなかったが、日置が起きてこの顔を見たら目を丸くして驚くだろう。
口の端は切れて目の周りは大きなアザになっている。病室の鏡に映るブサイクな自分を見て、また笑ってしまった。
ついにやってしまった。
日置のことを今まで散々悪く言っていた連中。
また病気休暇を取っていることをバカにして、さっさと辞めさせろと悪口を言い始めたのだ。
今回は社内の食堂の大勢がいる中で、デカデカと声を上げて、次に戻ってきたらどこで遊んで来たか問い詰めてやろうなんて言って大笑いしていた。
ブチンとキレてしまった。
相手は五人だったが、少しも怖いものなどなかった。
最初に殴りかかったのは俺、一番ムカつくやつに顔面パンチをくらわせた。
向こうもやり返してきて食堂で殴り合いの大乱闘。
俺も殴られたが、もちろん全員殴ってやった。
大勢集まってきて止められて、ようやく事態は収められた。
最初に殴った俺が悪いとされたが、向こうも食堂で大騒ぎしていたので、全員停職処分になった。
日置の叔父の雅人が会社のことは任せてくれと言ってくれたので、今は日置の元にいられる時間が増えたことを素直に喜んでいた。
「本当に労災でないみたいなんですよ。日置さんの言う通りでした」
クスリと笑いながらベッドに頭を乗せた。こうやってうたた寝してしまったら、目が覚めた日置が揺り起こしてくれるかもしれない。
そんなことを願いながら目を閉じた。
朝から冷たい雨が降っていた。
日置の意識が戻らずひと月を過ぎて、停職中の俺は毎日病室に通っていた。
腫れは引いたが、顔のアザはなかなか取れなくて、今朝鏡を見た時もまだ残っていた。
バス停に着いたが屋根がなかったので傘を閉じれない。
開いたままのビニ傘からどんよりした空を見上げて、落ちてくる雨の音を聞いていた。
雨で渋滞しているのか、なかなかバスは来なかったので、目を閉じていると、少し前に聞いた日置の寝言を思い出した。
ごめんなさい、ごめんなさい
うなされながら謝っていた。
あの悲しそうな声を思い出して、苦い気持ちになる。
俺のせい
日置は自分と付き合ったことで、道彦が苦しんでそれが事故につながってしまったと、本気で考えていたのだろうか。
道彦の母親に会う前、ショックを受けて寝込んでしまったらしいが周囲には気丈に振る舞っていたらしい。
心配をかけまいとしていたのだろうか。
そして……
自分で、終わりにします。
思い出した最後の言葉に体が固まった。
何かおかしいと思った。
最初にその言葉を聞いた時は、道彦との関係のことだと思っていた。
しかし日置が謝っていたのは道彦の母親だ。
道彦が亡くなった後、荷物を全て持ち去るために部屋を訪れた際の記憶になるのだろう。
死んだ人間との間の関係を、わざわざ終わりにすると告げるのは言葉としておかしい。
道彦の母親は日置を責めたという。
貴方のせいで、貴方が悪いよと。
それに対して、日置が返した言葉は自分で終わりにします
この組み合わせはどう考えても……。
パシャンッッ
持っていたビニ傘が手から落ちて地面を跳ねた。
嫌な予感がした。
バスはまだ来ない。
震える手で病院に電話をかけようとしたが、上手く操作できない。いてもたってもいられずに、俺の足は走り出していた。
胸騒ぎがする。
俺の予想が間違えていなければ、日置は自分で自分を終わらせようとしていた。
そして、その時の記憶が戻ってしまったなら、日置はきっとその時考えていたことを実行するはずだ。
ただ目覚めて記憶が戻るならいいと思っていた。
俺は分かっていなかった。
記憶が戻るというとこは、再び恋人の死に直面するということだ。
それが、日置にとってどれほどの影響があるか……。
「はや…早く行かないと……!!」
バシャバシャと水を切るように走った。
ずぶ濡れの状態で病院に滑り込んだ。
滴を垂らしながら、日置の病室を目指して走り続けた。
様子のおかしい俺を見つけた看護師さん達が大丈夫かと駆け寄ってくる中、日置の病室に着いて扉を勢いよく開けた。
そこには寝ているはずの日置の姿はなく、空っぽになったベッドが残されていた。
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