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充 ⑥
「充ーー! 早く起きなさい」
「起きてるよ、もう」
いつも寝坊助の俺がとっくに制服に着替えて鏡の前に立っていたので、ドアを開けた母は驚いていた。
「今日から朝練だって言ったたでしょ」
「あらまぁ、ちゃんと起きるなんて珍しい」
「坂の下で道彦と待ち合わせしてるんだ」
「ああ、鹿島くん。アンタ達本当に仲良いわよね」
朝ごはん食べて行きなさいと促されて、部屋から出て食卓のテーブルについた。
母が作った目玉焼きとお味噌汁をもごもごと口を動かして食べはじめた。
「父さんと陽菜は?」
「先に出たわよ。陽菜を車で送って行くから」
電車が苦手な妹のために父はよく車で学校まで送っていた。徒歩で登校できる俺とは時間帯が違う。
分かっていたが、母の視線からなんとなく気まずい空気を感じて話を逸らそうとした。
「鹿島くんってモテるのね。新しい彼女と歩いているところ見ちゃった。充も女の子紹介してもらったら? 心配よ、彼女とか全然ウチに連れてきてくれないから」
「……あいつは桁違いにモテるんだよ。アレを基準にされたら困る」
やはりその話かとため息が出そうだった。
高校に入ったら恋愛だ青春だなんて頭の母は、なんでも道彦を話に出してくる。正直うんざりしながら味噌汁を飲みきった。
「行ってきます」
女の子との恋愛なんて考えらない。
今俺の頭の中を占めているのは道彦だけだ。
モテモテで毎日のように違う女の子と遊んでいるけど、俺だけは特別だ。
友達だから道彦とずっと一緒にいることができる。
道彦を取り合って争って、嫉妬とかウザいからいらないって言われる女の子達とは違う。
俺はずーっと道彦の隣にいられるんだ。
坂の下の待ち合わせ場所に行くと、道彦の姿が見えたが、隣には別のクラスの女子がいた。偶然会って話し込んでいるような雰囲気だった。
「……いいけど」
「本当に!? 嬉しいーー! 道彦くんと付き合えるなんて!」
飛び跳ねて喜んでいる女の子の頭を道彦はぽんぽんと撫でていた。
俺が近づいていくと道彦はよぉと言って手を上げた。
「充、悪いな。今日はこの子と行くからさ。また学校で」
俺のことをチラリと見てきた女の子は、ばいばーいと言って手を振ってきた。
二人はぴったりと寄り添いながら歩いて行ってしまった。
一人残された俺は動けずに立ち尽くしていた。道彦の姿が小さくなっていく。
その後ろ姿に向かって手を伸ばしたが、手は空を掴んで力を失いだらりと下に垂れた。
俺だけ特別?
本当に?
ただの友達。
あんな風に頭を撫でられたこともない。
別の相手ができたら、簡単に後回しにされてしまう関係。
友達でもないかもしれない。
「……俺、何やってんだろう」
苦しいの?
「苦しいよ」
どうしたの?
「だって……道彦は……」
道彦の背中がどんどん小さくなる。
俺を振り返ってはくれない。
一度も、ほんの一瞬さえも……。
「俺を置いていってしまったから」
地面がガラガラと音を立てて崩れていき、俺は真っ暗な底に向かって落ちていった。
そうだ。
道彦は俺を置いていなくなってしまった。
もう会うこともできない場所へ。
一時でも。お互い愛し合っていた時は確かにあったはずだ。
だから、道彦の死が俺の責任だなんてことはない。
それは分かっている。
分かっているけど、そう思わなければ、道彦の中に俺はいなかったのだと考えてしまう。
俺の責任だ。
そう思えば道彦の中に俺が確かにいたのだと思えた。
そうじゃなきゃいられなかった。
家を出ていった日、道彦はやっぱり友達でいた方がよかったと言っていた。
今さら戻れないと泣く俺に、ごめん、忘れてくれと言ったのだ。
俺だ、俺なんだ!
道彦が苦しんでいるのは俺のせいで、この先俺のことを思ってずっと悩み続ける。
俺はずっと道彦の特別で……
「お前は特別じゃない」
最後のドアが閉まる瞬間、道彦は背中を向けたままそう言った。
なぁ道彦
俺はお前が死ぬ前にとっくに壊れていたんだよ。
だからお前が死んだって聞いて、俺は笑ったんだ。
道彦は俺のことで思い悩んだまま逝ったんだと思うと嬉しかった。
だからすぐに後を追おうと思った。
道彦を好きなこの想いを抱えたまま、すべて終わりにしようと思った。
周囲には明るく振る舞って、決意を悟られないようにした。
道彦の母親には終わらせますと伝えた。
気が動転して泣き叫んでいる彼女を見たら、少しだけ可哀想に思えたからだ。
道彦の荷物はすべて持っていってもらってよかった。
この世に残すものはなるべく少ない方がいい。
いよいよと思った時、俺の体は動かなくなった。
道彦の言葉を思い出してしまったから……
¨日置さん? 聞いていますか?¨
¨今日は綺麗な青空ですよ¨
誰だ?
誰の言葉だ……?
ずっと眠っていたいのに……
うるさくて寝ていられないじゃないか。
¨早く起きてくださいよ¨
¨日置さんが、作った卵粥が食べたい¨
うるさい
少し静かにしてくれ
¨日置さん¨
¨お腹空きました¨
「……るさいぞ、…ふ……かみ」
喉が渇いた。
ずいぶん長く使っていなかったので動きが悪くなったような瞼をゆっくりと開けると、白い天井が見えた。
周りを見渡すと全体的に白い部屋に白いカーテン、寝ているのは白いベッドだった。
窓辺にクマのぬいぐみがあって、優しげな瞳が誰かに似ていてしばらく眺めてしまった。
ふと点滴に繋がれた腕を見て、ここが病院であると気がついた。
「うううっ……」
頭痛がして頭を抱えた。
しばらくすると自分の身に起こっていたことが降り注ぐように落ちてきた。
道彦の死。
止まってしまった俺の時間。
こんな壊れた俺の側にいたいと言ってくれた人。
どれくらい寝ていたのか分からない。
体はひどく重くて腕一本動かすのもやっとだった。
なんとか時間をかけて起き上がり、ロッカーらしき場所を開けて、病院着を脱いでハンガーにかかっていた衣服を身につけた。
財布にスマホ、貴重品の類を尻のポケットに入れた。
自分でも何をやっているのかおかしいとは思うのだが、今すぐ確かめずにはいられない。
のんびりベッドに寝ていられないのだ。
早く確認しないと、瞬きをした瞬間に、またすべてを忘れてしまいそうな気がするのだ。
今生きているのは現実だ。
やっと時間の進む世界に戻ってきた。
だから確かめないといけない。
そうしないとまた闇の中に引きずり込まれてしまう。
壁に手をついてなんとか歩いて病室のドアを開けた。
明らかに動きがおかしいが、病院という場所ということもあって、ジロジロ見られることはない。
廊下に置かれていた歩行器を使って、なんとか下の階まで下りた。
ちょうど面会の時間が始まったのか、どっと人が入ってきて、その混雑に紛れるようにして外に出た。
タクシー乗り場を見つけて、ドアが開いていた一台に崩れるようにして乗り込んだ。
病院から明らかに体調が悪そうな男が出てきて、運転手は不審そうだったが、場所だけ告げて目を閉じた。
自分の目で見なければ、あれを確かめないと、それで……。
再び頭を覆い隠してきそうな黒い霧を散らすように、俺は早く着いてくれとそれだけを考えていた。
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