410人が本棚に入れています
本棚に追加
終話
※※※
(隆聖)
入院患者がいなくなったことで、病院は大騒ぎになった。ずっと意識のなかった患者で、一人にしておける状態ではない人だ。
すぐに叔父の雅人が呼ばれたが、俺は雅人の到着を待たずに病院を飛び出した。
日置が行く場所はあそこしかない。
恋人と二人で暮らした部屋。
付き合ってからの全ての思い出が詰まったあの場所に絶対戻っているはずだ。
それで、すべてを終わらせようとしているのかもしれない。
「お願いだ……間に合ってくれ……」
タクシーに飛び乗って、日置の元へ向かった。
一秒で全てが変わってしまう。
そう思うと信号で止まるたびに気がおかしくなりそうだった。
「道彦はね、このまま充くんと一緒にいたら、だめだと思ったんだ。充くんをどんどん傷つけてしまう。何をしても許してくれる充くんが怖くなった。常に好かれていたいけど、絶対的な愛を向けられたら失うことが怖くてたまらなくなった。バカなやつだと思うが、アイツなりに充くんを愛していたから彼から離れようとしたんだ」
バーのマスターが話してくれた言葉を思い出して強く握り込んだ手で自分の膝を殴った。
それが彼の愛のかたち?
フザけるなっ! だったらはじめから一緒にいなければよかったんだ。
刹那的な愛を繰り返して、結局それが自分には合っていると思うなら、そのままでいればよかった。
高校時代から日置が自分を好きだったことなんて気がついていたはずだ。
側にいてくれる日置の心が心地良かった。
いつだって斜めに避けて美味しいところだけ食べていたが、告白されて手放すのが惜しくなった。それで付き合ってみたが、その思いを真っ直ぐ受け止めたら思ったより重くて苦しくなった。
だから逃げただけの腰抜けだ。
付き合いのあったマスターからすれば、クズだけど憎めないやつというイメージなのかもしれないが、俺からしたらただのワガママなガキにしか思えない。
自分が満足するなら、人を傷つけてもいいと思っているガキだ。
会ったこともない他人の俺からしたら、もう日置さんの中から消えてくれとしか思えない。
五年も、五年も日置の時を奪い、それで今、黄泉の世界へ引きずり込もうとしている。
間に合わないかもしれない。
そんな思いが頭をよぎって慌てて首を振った。
俺が日置を取り戻す、黄泉だってどこに行ったとしても、必ず連れ戻してやる!
タクシーのドアが開いたら一目散に飛び出した。
何度も通ったこのマンション、何度も上った階段、ずぶ濡れで転びながら日置の部屋の前に着いた俺は、すぐにドアノブに手をかけた。
ドアは施錠されておらずガチャリと音を立てて開いた。
小雨が降る日は陽の光がなく室内は薄暗かった。
コンクリートの冷たい床を歩いて中へ入ったら、向かうところは一番奥の部屋だ。
道彦の部屋だと言われていたそこは、いつも固く閉ざされているのに、今日はわずかに開いていた。
迷うことなく足を進めてその部屋の前に立った俺はドアを勢いよく手で押した。
何もない部屋だった。
無垢材のフローリングが一面に広がり、何一つ物がない。
空っぽの部屋。
その真ん中にうずくまっている人影があった。
「日置さん!! だめです! だめだ! 行かないでくれ! 充!!」
叫びながら駆け寄ると人影は動いて、記憶にある切長の美しい瞳が大きく開いてその中に俺を映した。
「ふ…かみ?」
小さな口が俺の名前を呼んでくれた。
夢じゃない、これは夢じゃない。
帰って来てくれたんだ。
「どうしたんだ!? ひどい顔に…ずぶ濡れだし…、俺が寝ている間に乱闘でもしたのか?」
「……よく分かりましたね。その通りです」
「は? 嘘だろ……」
冗談を言ったつもりだったのか肯定されたので、日置はまた目を開いてびっくりした顔になった。
その顔を見たら胸がいっぱいになった。すぐに近寄った俺は、飛びつくようにして両手で力いっぱい日置を抱きしめた。
「ゔぉっ…おい! 冷たっ…くるしっ何を…」
「生きてる」
「えっ……?」
「生きてる生きてる生きてる。日置さんが生きてる………良かった……生きてる……」
「深海………」
声と体を震わせながら日置を抱きしめ続けた。
細くて力のない体はまるですぐに折れて壊れてしまいそうだった。
大切に大切に、傷つかないように、それでいて無事を確かめるように抱きしめた。
日置の温もりが欲しかった。
最初は冷たいとか苦しいとか言っていた日置も、震える俺に気が付いたのか、やがて力を抜いて俺の背中に手を回して抱きしめ返してくれた。
「……ごめんな、心配かけたな。もう、大丈夫だと思う……。色々なことの、決着がついたよ」
「記憶は? 時間が止まっていたことは?」
「ああ、ずっと長い夢を見ているみたいだった。何度も同じ毎日を繰り返して、道彦が出ていった後に戻っていたけど、実は自分でもおかしいと思い始めていたんだ。それは……お前のおかげなんだ深海」
「え?」
「お前が俺の変わらない毎日を変えてくれた。真っ暗な闇の中に沈んでいた俺に光を見せてくれた。道彦の母親に会って全部一気に流れて来たからパンクしてしまったけど、本当はきっとお前のおかげで徐々に自分を取り戻していた気がするんだ」
ハッと気が付いて俺は日置の体を確認した。どこか怪我をしているところはないか心配でたまらなかった。
自分で終わりにすると言っていたから、思い出した日置は体を傷つけているのではないかと思ったが、体に傷はなかった。
「日置さん……俺はてっきり、日置さんが死んでしまうかと……よかった、俺の思い過ごしだったんですね」
「死のうと思っていた」
日置の口から出た言葉に体をビクつかせた。やはり思い過ごしではなく、間に合ったということなのだろうか。
「……でも、もう死ねないんだよ」
「どういう……ことですか?」
悲しげに笑った日置は、病院を飛び出して来てしまったからと、まず叔父の雅人に連絡をした。
俺が電話を代わり事情を話して、必ず日置を連れて帰るからと約束した。
濡れた服を着替えて、風邪をひくからと毛布を被せられた。
着替えている間に日置は温かいミルクティーを用意してくれた。
「そうか、俺はひと月も意識が戻らなかったのか。どうりで体がなかなか言うことを聞いてくれないんだな。筋肉がすっかり落ちてしまったみたいだ」
「無茶しすぎですよ。そんな状態でよく病院から抜け出せましたね」
「確かめなければいけないことがあったんだ。自分の中でどっち付かずで揺れていて、また元の変わらない時間に引き込まれそうな感覚がした。だから過去は過去なのだとハッキリと自分に分からせる必要があった」
あれを確かめに来たんだと言って日置は長い指を、ソファーに座る俺の後ろに向かって差した。
振り返ると机の上にいつも日置が水をやっている鉢植えがあった。
どう考えてもおかしな行為にはやはり意味があったらしい。
「花が咲いていないか確かめに来たんだ」
「花って……。日置さん、この鉢植えはとっくに……」
「そう、とっくに枯れていて、萎れて硬くなった残骸しか残っていない」
日置と目が合った。
大丈夫なのかと目の奥を読み取ろうとしたら、それに気がついた日置が大丈夫だと言って口元だけ笑った。
「昔、付き合ってから一度だけ、道彦と映画を見に行ったことがあるんだ。浮かれていた俺は、恋愛ものを恋人と一緒に見るのが夢で、頼み込んで一緒に見た。それがドロドロの恋愛映画で、終わった後、道彦は酷評していた。主人公はとにかく恋人に依存して、貴方が死んだら私も死ぬわって言って重い愛を向けるんだけど、それを見た道彦は俺はそんなのごめんだって言ったんだ。自分のために死なれるなんて気持ち悪いし、絶対に嫌だって」
いつだったか、日置と映画を見て似たような話になったのを思い出した。
その時、日置の体調は急に悪くなったが、このせいだったのかと気が付いた。
「道彦が死んだって聞いた後、俺も死のうと思った。ちゃんと準備をして周りを整理して、いざ死のうと思った時、その言葉を思い出してしまった。何度も何度も死のうとしたけど、その度に道彦が嫌だと耳元で囁いてきて俺の手を止めた。もうだめだった……道彦のために後を追って死ぬことはできなかった」
その時のことを思い出しているのか、日置の手は小刻みに震えて、真っ赤な唇も苦しそうに揺れていた。
同じソファーに座っていたが、日置にぴったりと寄り添って、震える手を上から包むように握った。
「だから決めたんだよ……。別の理由で死のうって。道彦がくれたサイネリアの鉢植え。あの花が……サイネリアの花が咲いたら死のうって決めたんだ」
日置の瞳から大粒の涙がこぼれ落ちて、たまらなくなった俺は横からぎゅっと震える体を抱きしめた。
「そこで…そこで意識が薄れて倒れたんだ。俺は…道彦が出て行った後に戻ってしまった……。結局入退院を繰り返して、ちゃんと世話もできなかったから花は枯れてしまった。でも俺の目にはずっとつぼみの状態に見えていた。わずかな意識だけはあったのか、どうにかして咲かせないといけないって……毎日、水を……」
「もう…いいです。水はあげなくていい、死のうとする理由を探さなくていいです。お願いです、生きてください。俺と一緒に毎日、生きることを…幸せになることを考えて……お願いです日置さん、俺と一緒に……生きてください」
嗚咽を上げながら二人で泣いた。
泣きながら分かったと言って、俺にしがみついてきた日置をめいっぱい抱きしめた。
もう離さない。
冷たい孤独の世界にひとり残したりなんかしない。
目が眩むほどの優しい光を貴方に届けたい。
「愛してます」
ぽたんぽたん、ぽたっ……
蛇口から落ちる水の音がわずかに聞こえてきたけれど、それがぴたりと止んだ。
日置の吐息と心臓の音だけでいい。
それだけを飽きることなくずっと聞いていたい。
いつまでも……ずっと。
※※※
(充)
冷たい風が吹いてきて、短い髪の毛をふわりと揺らした。
やっぱり髪を切るなら夏にすればよかった。
耳のまわりが寒すぎて思わず手を当てた。
「日置さんー!」
髪を切った姿を早く見たいと言って、わざわざ午後休を取った深海が待ち合わせのカフェに走ってやって来た。
学生時代スポーツに明け暮れたという深海の体は、均整のとれた逞しい体つきで、スーツを着るとそれが強調されて見える。
そしてその逞しい体にぴったりの、精悍で男らしい顔つきは目を引いて、道行く人が振り返って見ているのがよく分かる。
細身の体型で王子様と呼ばれていた道彦とは正反対。道彦が王子様なら、深海は騎士のようだ。
戦場でバタバタと敵兵を倒して、雄叫びを上げる姿がこれほどまでに似合いそうな人は他にいない。
変な妄想をしていたら、深海は俺のいるテーブルまですでに来ていた。
前の椅子が空いているのに、座らずに立ったままポカンと口を開けて俺を眺めていた。
「な…なんだよ。おかしいかな…? 結局おまかせにしてもらったんだ…。流行りとかも…よく分からないし……」
「いい………」
「え?」
「良すぎて…倒れそう! 日置さん! なんて可愛いんだぁぁぁ!!」
「ばっ…! バカ! みんな見てるから! ああ…やめてくれ! ほら、座れって」
慌てて立ち上がり、深海の口を押さえて椅子に座らせた。その間も近くの主婦グループや学生グループから注目を浴びてしまい恥ずかしくて消えたくなった。
「外で可愛いは禁止だって、言っただろう! 俺みたいなのが言われていたらおかしいって!」
小声で周りに聞こえないように怖い顔を作って深海に顔を近づけたが、何を勘違いしたのか深海はとろんとした目で俺を見てきて、カットしたばかりの髪を嬉しそうに撫でてきた。
「それなんですけど、どうしても出ちゃうんですよ。日置さんが可愛いのがいけない」
「お…俺のせいって……」
「それにしても、綺麗な目もセクシーな泣きぼくろも丸見えじゃないですか! 俺だけの楽しみだったのに…はぁ…ライバルがまた増えるなぁ。いくら武闘派でも限度がありますよ」
「だから…声大きいって……」
深海の口から注目を集めるワードがてんこ盛りの状態に、もう恥ずかしくて手で顔を覆った。
ゴソゴソと音がしたので覆っていた手を離すと、出先で何か買ってきたのか、深海は袋から白いふわふわしたものを取り出して俺に手渡してきた。
「髪を切るって言うから必要になると思って。ずっと長かったから寒いんじゃないんですか?」
「こ…これは?」
「イヤーマフです」
「イッ……イヤーマフ!? 三十過ぎた男が…白いふわふわの……」
「いいじゃないですか、似合いますし。ついこの前まで二十五だと思って生きてたわけですから」
深海の言っていることが異次元すぎて理解できない。眉間に皺を寄せて唸るしかなかった。
そうなのだ。
考えてみれば俺はいつの間にか二十代が終わってしまったが、深海は新卒でまだ始まったばかりなのだ。
この歳の差はどうしたものかと思うが、そもそも人付き合いのできない人間の俺が、悩むところはまずそこではないのかもしれない。
「まあ…俺は在宅だから、ほとんど外には出ないし付ける機会が少ないと思うが……、とりあえず……ありがたくもらっておくよ」
「じゃ、今日は付けて帰りましょうね。俺達の愛の巣に」
俺もコーヒーを噴き出したが、隣で聞き耳を立てていた主婦グループも飲んでいたコーヒーをブブッと噴き出した。
これは年齢差の問題なのか、頭がクラクラしてそれすら分からなくなりながら、カップの底に残ったコーヒーをやっとのことで飲みきった。
俺の時間が元通り動き出してから三ヶ月が過ぎた。
病院を抜け出した俺はこっぴどく医師から怒られて、退院できたのはそれから二週間後だった。
会社にはやはりこれからも迷惑をかける可能性があるので、叔父の提案で在宅の部門に移ることになった。
あの部屋をどうしようか迷っていたが、ちょうど実家を離れる予定だったという深海と一緒に、新しく部屋を借りて住むことになった。
俺の悪口を言っていた連中と喧嘩した深海は、無事停職もあけて職場復帰した。深海以外の連中はもともとトラブルメーカーだったこともあり、地方の支社にバラバラに転勤になった。
俺の方はあれ以来体調も安定している。むしろもっと動かなくなったので、腹が出てきそうな心配の方が多くなってしまった。
カフェを出た俺達は深海が言った通り、愛の巣に向かって歩き出した。
先をスタスタと歩く俺に追いついた深海は、日置さん好き好きと言いながら手を繋いできた。
比べるのもどうかと思うが、道彦の時に経験した恋人同士の付き合いとは何かもが違くて、なかなか慣れない。
こんな風に呼吸をするように愛を囁く男なんて、どう対応していいのか分からない。
実を言うと、俺はまだ深海に自分の想いを伝えていない。
ずっと道彦にあった気持ちがいつ深海に傾いたのか分からないが、気がついた時には俺の中で深海の存在が大きくなっていた。
真っ直ぐにこれでもかと愛をくれる深海は、大切でかけがえのない存在だ。
戸惑ってばかりだが、俺も深海のことを大事にしたい。
この先もずっと一緒に生きて行きたいと思っている。
深海は過去のこともあり、焦らすに俺のことを待ってくれているのは痛いほど分かっている。
ただ、気がついたらの三十路男は、どう愛の告白していいのかすっかり忘れてしまったのだ。
人通りが少なくなってきたのを見計らって、というかそろそろ寒さが限界で深海にもらったイヤーマフを付けてみた。
驚くほど温かくて、これは手放せなくなりそうだと感動した。
ふと視線を感じて見上げるとまたトロンとした顔の深海が俺を見ていた。
「日置さん…かわいっ…写真撮ってもいいですか? 待ち受けに…部屋に飾りたい…!」
「やだよ、やめてくれ」
即断られたからか、シュンとした顔になった深海が可愛く思えて、いつもあまりくっ付かないが思い切って腕に手を絡めてみた。
「うっ…嘘……! これ夢?」
「いいだろ…たまには……」
「もっもちろんです! ぜひ! 毎日お願いします!」
でたでた。
深海はまるで尻尾を振っている大型犬のようだ。
目をキラキラさせて涎でも垂らしそうな顔が、胸がキュンとして可愛く見えてしまう。
「俺がどうして急に髪を切りたいって言ったのか気になっていたんだろう?」
問いかけると、深海は真面目な顔になって、はいと返事をしてきた。
ずっと前髪も後ろ髪も長くてモサっとしていた。それが楽だったのでそうしていたが、心境の変化があったのだ。
きっと深海は、俺が過去に囚われて、それを少しでも意識しないためにとか考えていそうだ。
確かにそう言った側面もあるにはあるが、本当はもっと違う気持ちだった。
「深海ってさ、カッコいいから……。俺もちゃんとしないと恥ずかしいって思ったんだ」
「え?」
「す…好きな人の隣に立つなら、よく見られたいって……、俺みたいなのが見栄張ってもとは思うけど……深海の恋人として恥ずかしくない男になりたかった……という感じで……って、……ええ? 深海!? どうした?」
掴んでいた腕がするりと抜けて、顔を上げたら横にいたはずの深海が消えていた。
デカい体なのですぐに分かったが、地面に座り込んで丸くなっていた。
「日置さん、やめてくださいー。こんなところで、俺…心臓もたない……嬉し過ぎて倒れそう」
「え、や、あの、これは…別に…告白とかじゃなくて…告白はちゃんと別のを……」
「え? 別の?」
深海の耳がピクピクと動いた。耳なんて動かせる人間がいると思わなかった。
「色々考えたんだけど……ちゃんと言ってなかったから。あああの、さ、……きだ」
「えええええ!? 大事なところ全然聞こえない!」
「だっ、だから、俺も好きなんだ……深海が好き…です」
「なぜ敬語」
「わ…悪い…興奮し過ぎて…」
座り込んでいた深海は、うおおおおっと雄叫びを上げた後、俺をガシッと掴んで持ち上げてしまった。
「ばっ…何すんだ!?」
「もー日置さんが可愛すぎて、早く走って誰にも見られないところに連れて行きたいんです!」
「落ち着けって、このまま家まで抱っこされたら、そっちの方が注目されてしまうって!」
「好きです、俺も大好きです! 嬉しい…嬉しすぎると泣けるんですね。日置さん、ありがとうございます…こんなに嬉しいのは生まれて初めてです」
そこまで感動するかというくらい、深海は涙目になって鼻をヒクつかせながら喜んでくれた。
歳の差とか、年上のリードとか色々と思い悩んだが、そんな必要はなかった。
変に飾ったりせず、素直にちゃんと好きだと伝えたら驚くほど喜んでくれた。
トクトクと心臓は揺れて、全身が幸福に満ちていくのを感じた。
「お礼を言うのは俺の方だよ。好きになってくれてありがとう。……隆聖、大好き」
気持ちがグッと高まってしまい、思わず名前で呼んでしまった。
溢れそうな気持ちをどうにか伝えたくて、抱っこされている状態だったが、深海に顔を近づけて唇にチュッとキスをした。
急ぎすぎたかなと思いながら、深海の顔を覗き込むと、深海は真っ赤になって目の焦点が合っていなかった。
「え? おい? 大丈夫か!?」
「……むりです。…も……だめ……」
「わわわわっ…、深海っ、こんなところで気絶すな!」
俺をなんとか地面に下ろした後、興奮しすぎたのか深海はフラッとして、ドテーーンと倒れて気絶してしまった。
「深海ーーー! 運べないってーーー!」
当然デカい体の深海を俺がおんぶできるわけもなく、叔父に救援を頼むことになった。
日が沈み、一人でベランダから景色を見ていたら、ようやく気がついた深海がのっそりと起きてきた。
気持ち良さそうにいびきをかいて寝ていたので、起こさずにそのままにしておいたのだ。
「……日置さん、すごくいい夢を見てしまいました。今、夢じゃなかったらって願っているんですけど……」
「夢じゃないよ。お前が気絶して倒れて、叔父と一緒に運んでベッドに乗せたんだ。おかげで汗だくになったよ」
「おー……その夢はちょっと、見てないかな…なんて」
慌てる深海がおかしくて、ぷっと噴き出して笑ってしまった。
こんな風に穏やかな気持ちでいられるのは初めてだ。
今まではいつだって焦っていて、怖くて必死だった。
手を伸ばすと近づいてきた深海は俺の手を取った。
そのまま引き寄せて、手の甲にキスをした。
「あああの、これはやっぱり……」
「言っただろう、夢じゃないって。俺の熱い告白を夢にするな」
「日置さんっっ! キス! キスしたい! 俺もキスしたい!!」
「だっっ! おい、ガッつくなっっ」
ずいぶんと待たせたからか、目をギラギラと光らせた深海は俺をベランダの柵に押し付けてきた。
はぁはぁと息を荒くしていてまるで大型犬に懐かれてような状態に笑ってしまった。
「急ぎません! 急ぎませんから…、ぶちゅっと一発!」
「おまっ…ムードも何もないな」
ガシッと両肩を掴んできた深海は、言葉とは違い真剣な顔で俺を見てきた。
「一生大切にします」
「本当に…俺でいいのか?」
「日置さんがいい、日置さんが欲しい」
「俺も……深海が欲しい」
深海の顔が近づいてきて、ふわっとよく日に当たった洗濯物の匂いがした。
この匂いに包まれると、もう何も怖いものがないと思うくらい安心する。
緊張しているのか深海の手は震えていて、遠慮がちにゆっくりと唇が重なり、わずかに離れたら吐息が唇に当たった。
熱かった。
吐息も唇も、間近で見つめ合う視線も、全てが熱く感じた。
「日置さんのこと…名前で呼んでいいですか?」
「いいよ」
「充……」
耳に響くのは他の誰とも違う、優しくて胸を包んでくれる声だった。
好きな人に名前を呼んでもらうのがこんなに嬉しい気持ちになるなんて……、もっともっと呼んで欲しかった。
「……充、充さん? あれ?」
「もう…どっちでもいいから」
「でもいきなりタメ口ってのがどうも慣れなくて…、あっ、二人きりの時は充で、普段は充さんでいこうかな、それなら……」
照れ隠しなのか、深海は饒舌に語り出したので、なかなか終わりそうにない。
せっかくの甘い雰囲気なのだから、ここまま終わらせたくなかった。
「隆聖、少し静かにしろ」
「え? あっ…ぁ…んっぐっっ」
よく喋る恋人の口を塞ぐとっておきの方法はキスしかない。
それもとびきり甘いキスだ。
二人の始まりを、全身トロけてしまうようなキスでお祝いしよう。
毎朝起きたらお互いの寝顔を見て、幸せだって思えるような日々を送っていきたい。
辛い過去も、失った時間も、もう振り返ることはない。
今を、大切な人がいる今を生きる。
俺は今、未来を向いて生きている。
□完□
最初のコメントを投稿しよう!