410人が本棚に入れています
本棚に追加
隆聖 ①
長い廊下を歩いていたら、賑やかな笑い声が聞こえてきた。
見ると廊下の突き当たりにある休憩所には、同期と同期の部署の先輩達が集まっていて、コーヒー片手に盛り上がっていた。
俺が近づいて行くと目が合って、同期は手を上げて声をかけてきた。
「よお、リューセイ! 今日の飲み会はもちろん参加だよな?」
「いや、だって年一の決起会で強制だろう。出なきゃマズイって聞いたし行くよ」
「そうそう、全員強制参加だってな。ああ、コイツ俺の同期で、営業二課の深海です」
同期はヘラヘラ笑いながら俺を先輩達に紹介した。部署が違えばほとんど話すこともないし、顔もよく分からない。
ざっと見渡したが、見かけたことはあるなという程度の人達だった。
新人の俺としては、挨拶するのが仕事みたいなものだ。と言ってももうすぐ入社して一年なので、慣れた自己紹介をして頭を下げた。
国内では知られた家電メーカーに就職して一年。長い期間、営業として先輩社員にくっ付いて回っていたが、いよいよ一人で顧客を任されるようになった。
仕事は順調と言えるだろう。
今日は年に一度の繁忙期前の決起会がある。ただの飲み会なんてレベルではない。ホテルのホールを貸し切って全社員参加する大きなものだった。
飲んでコミニケーションなんて時代は終わり、今は上司が急に飲みに行こうなんて声を上げることは少なくなった。
飲み会自体は開かれているが、断ることも自由だし強制はされない。
ただ、今日だけは参加しなくてはいけないと、入社早々にそういう説明を受けていた。
どうせ新人なんて、ビール瓶片手に挨拶回りだろう。酒や会話を楽しむなんて時間はないと思ったほうがいい。
これも仕事の一環だから仕方がないと考えていた。
「深海くん、ガタイがいいな。学生時代スポーツやってた?」
「ええ、サッカーとアメフトも少し。酒は強い方ですけど、自宅は遠いので勘弁してくださいね」
会社には酒好きが多く、体育会系と聞けば絶対飲めると思われるのが何ともやっかいだ。
スーツを着ても鍛えた体は隠せないので、どうもその手の誘いは尽きなかった。
このままだと、朝まで付き合えと言われそうなので、早いうちに軽くアピールしておかないといけない。
「なんだ実家住まい? まだ一年目だしな」
「通勤できない距離じゃないので、なかなか忙しくて先延ばしにしていまして……」
軽く挨拶だけにしようと思っていたのに、どんどん会話が進んでいく。
今日は朝から電話をかけていたので、少し頭を休めようかと思っていたのに、これでは休めそうもない。これも付き合いかと思いながら、同期や先輩達に混じって会話に参加することになってしまった。
「そういえばあの人も来るんですか?」
「あー、多分来る。他は絶対参加しないけど決起会だけは来るよ。こっちからしてもいなくていいんだけど」
和やかに話していたのに、急に嫌な雰囲気になってしまった。他の社員の悪口なんて聞いたら、後々面倒だなと思って俺は口を閉ざしたが、同期が余計な気を回してきてしまった。
「ああ、うちの、総務の先輩なんだけど、嫌われている人がいてさ」
そういうのはそっちで勝手にやってくれと思いながら、反応しないのもおかしいので適当に頷いた。
「日置さんって名前なんだけど……」
何か理由をつけて戻ろうかと考えていたが、出てきた名前に体がピクリと反応した。
「不潔ってわけじゃないけど、髪はボサボサでいつも下を向いていて、とにかく暗くてさ…、仕事以外だとほとんど喋らないし、見ているだけでこっちもお通夜状態なんだよね」
「うちの会社は縁故で採用されたらしくてさぁ、正直お荷物なんだけどクビにできないんだよ。そういうところもマジでキモい」
「何度も精神的な病気で長期に休んで、また出てくるの繰り返し、こっちは真面目に働いてるっていうのに迷惑な人なんだよ」
誰かを称賛する話はすごいねで終わるのに、人の悪口ほど盛り上がるものはない。
次から次に悪口が出てきたが、借金だらけや、ズル休みでギャンブルをやってるのではないかなど、ほとんど噂の域を出ないような話ばかりだった。
「ほら、噂をすれば…」
誰かがそう声を上げたら盛り上がっていたのに、一瞬で静かになった。
廊下の向こうで、背を丸くして下を向きながら歩いている男の姿が目に入った。
確かにみんなが言うように明るさのカケラもない。
長い前髪に細い体、肌は青白くてまるで幽霊のようにすら見える。
俺はあの人のことを知っていた。
まともに話したことはないけれど、一方的に知っていた。
「噂ではさ、日置さんて男が好きなんだって」
「マジかよっ、ホモっすか!? うわぁ、俺達気をつけないとな」
先輩の一人がまた勝手な噂を取り出してきて、それに調子に乗った同期が反応して俺達と言われて肩を組まれてしまった。
周りからはどっと笑いが起こった。
好き勝手言って、揶揄うなんて最悪な気分だった。
吐き気がした俺は電話が来たからと言ってその場を離れた。
否定して怒鳴ってやりたかったが、俺は違うと否定できるほど彼のことを知らない。
だから、いい加減なことは言えない。
………いや、それでも少しは否定できたはず。
結局のところ勇気が出なかった。
あの時の恩があるのに……。
何もできなかった自分が悔しくて仕方がなかった。
「ほら、さっさと帰って寝ろ」
同期をタクシーに押し込んで、やっと終わったとため息をついた。
まったく疲れる会だった。
自分はほとんど飲み食いできずに、ひたすらビール瓶片手に走り回らされた。
俺はこんな調子なのに、同期はちゃっかりベロベロに酔っていた。
二次会まで行くと言っていたが、先輩方からあの酔い方じゃ面倒見れないから帰らせてくれと頼まれた。
何とか同期を支えてタクシーに乗せて、小さくなっていくテールランプを見たら、やっと解放されのだとどっと疲れが押し寄せてきた。
これが一年に一回かと思うとまだ我慢できるかと思うが、定期的にあるなら勘弁して欲しいくらいだ。
もともと誰とでも上手くやるタイプだが、酒の付き合いは好きじゃない。こんなことが続くなら転職すら考えるレベルだ。
会場に戻ったら絶対二次会に連れて行かれるのでこのままサクッと消えようと思ったら、会場の方から人が歩いてくる気配がした。
逆光でよく分からないが、三人いて、一人は歩けないようで両端の二人に支えられていた。
まだアホがいるのかとゾッとしながら、通行人のフリをして隠れようとしたら、不運なことに名前を呼ばれてしまった。
「深海くん、君まだいたのか、良かった」
「おお、深海、若いのがいて助かったぞ」
無視しようかと思ったが、残念ながら無視できない声だった。
部長と課長のコンビだ。
上手く逃げたはずだったのに、まさかこんな状況で会ってしまうとは今日は本当に最悪な日だと思った。
もしこの後飲みに行くかと言われたら断れない。この時間からだと、明日は休みだがとても自宅へはたどり着けないだろう。
「すまないが、この人を頼めるか? 無理矢理飲ませてしまったらつぶれてしまってな」
どうやら可哀想な犠牲者らしい。
うちの部署の部長はまだバリバリの体育会系で、パワハラスレスレなど日常茶飯事だ。
連れられて来たのは、きっとそんな部長の押しに負けた男だろう。
「定期入れに免許証が入っていたから、そこに住所があるから頼む。さすがにこの状態で一人で帰すのはマズイと思っていたんだ。私達はこの後、総括に呼ばれていて行かないといけないから助かった、悪いな」
課長にもう決定事項のように頼まれてしまった。拒否権があるならぜひ今行使したい。
空気の読めないイマドキの新人になって、一度くらいは断ってみるかと、もう終電近いから無理ですと言葉が喉まで出かかった。
「お前は知らんかもしれないが、総務の人で………」
上司の間に挟まってグッタリしている人を見て、俺の言葉は止まった。
代わりに出てきたのは……
「分かりました」
嫌そうな顔をしていたのに、急に素直に応じた俺を二人の上司は不思議そうな顔で見てきた。
俺は上司に代わって肩を貸して、ちょうど走ってきたタクシーに乗り込んだ。
細いと思っていたが、その人は驚くほど軽くて肉の付いていない体だった。
免許証の住所を告げてタクシーに乗り込むとしばらくしてその人は気がついたようで、薄目を開けて小さく唸る声を上げた。
「あ…れ、ここ……?」
「今タクシーの中です。会場で酔いつぶれたらしくて、俺が送るように頼まれたんです」
「はぁ……それはすまない。こんなことになって……、だからこういう会はだめだったのに……」
まだ頭が回っているのか、おでこに手を当てたその人は苦しそうに息をしていた。
俺は背中をさすりながら、免許証を拝見して住所を確認したことを告げた。
「すまない…本当に……すま…な…い」
その人は謝ってばかりいた。
まるでそれが口癖のようだった。
以前俺の前に立ってくれた時はもっと違う印象だった。
この人はその時のことを覚えているだろうか。
「あの……俺、営業二の新人で深海隆聖って言います」
「ふ…かみ。本当に巻き込んで…すまない」
「あの、もう、謝罪はいいですから。もうすぐ着きますから、寝ないでくださいね」
ああすまないとまた言って、その人は窓にもたれて目を閉じた。
前髪が顔に張り付いて表情はよく分からないが、目を閉じた顔は穏やかで優しそうな顔だった。
まさかこんなことになるとは……。
いつかちゃんとお礼を言いたいと思っていたが、なかなか機会に恵まれなかった。
できればシラフの時がいいのだが、部屋まで送って行ったらちゃんと言おうと決めた。
最悪な日だと思っていたのに、最後の最後で何か変わりそうな雰囲気になった。
緊張で心臓の音だけがうるさく鳴っていた。
左の内ポケットと言われて手を入れると、鍵が出てきた。
それを使ってガチャガチャと鍵を開けた。
他人の家の鍵を開けるなんてこれが初めてで、友人でも恋人でもないのに不思議な気分だった。
「日置さん、開きましたよ。あの…俺はこれで……」
「うう……うー……ん」
部屋まで連れてきたはいいが、とてもまともに話ができる状態ではなかった。
すっかり冬になり、部屋の中は冷えていた。このまま玄関に放置して帰ったら風邪をひいてしまうそうだ。
せめてベッドに寝かせてあげようと仕方なく日置を支えたまま、お邪魔しますと言って部屋に入った。
「いいよ…ここで」
「え……でも、こんな床になんて……」
「俺の噂聞いてるだろう。お前を襲うつもりはないが、これ以上…迷惑かけたくない」
「何言ってるんですか。ここまで来たら廊下も寝室も一緒です。あっ、この部屋ですね。入りますよ」
玄関からすぐの扉が開いた部屋があったので、覗くと大きなベッドが見えた。
そのベッドまで日置を運んでゆっくりと下ろした。
「大丈夫ですか?」
「んっ……頭痛がする」
「どれだけ飲まされたんですか……ちょっと失礼します」
部屋を出てキッチンを借りてコップに水を入れてきた。
俺の姿を見て体を起こした日置にコップを手渡すと、ごくごくと飲んですぐにコップ一杯飲み干してしまった。
苦しそうだったのでネクタイを緩めて外してあげると、呼吸が楽になったのか静かになった。
ベッドのクッションにもたれた日置はぼんやりした目で俺を見てきた。
「え…と、深海だったよな。…ありがとう、助かったよ……」
「いえ、そんな。頼まれたのもありますが、俺……実は……」
「ふふっ…もしかして同僚と盛り上がって確認でもして来いって言われたか? 前にも同じようなやつがいたよ。別に隠すつもりはないから何と言われてもいい。噂通り、俺は男が好きなんだ」
「…………」
ただお礼を言おうと思っていたのに、まったく別の返しをされてしまい言葉が出なかった。そう言えばさっき言っていた変な冗談はこのせいだったのかと気がついた。
「ハハッ…そう緊張するなよ。家の中をよく見てくれればすぐに分かる。俺には同棲中の恋人がいるから……。会社の人間を襲おうなんて考えもしないよ。まあ、他の奴らには好きに報告してくれ」
恋人がいる、という言葉に心臓が飛び跳ねるくらい揺れた。
他人に恋人がいることなど何を驚く必要があるのだろう。
日置の口から出てきたことだとはなぜか信じたくて胸がモヤモヤとした。
「違うんです。俺、ここへはそんなつもりじゃ……」
「なら本当に部長達に頼まれたのか? 災難だったな。もうこんな時間か……ここまで運んでくれて悪いから、リビングのソファを使ってくれ。毛布もそこにあるから。いつもはそこで寝ているんだ…暖房もつければ……温かいから……」
「そっ…そんなっ! 家に変な男がいたら、恋人の方に誤解を……」
「大丈夫……あいつは…帰ってこない……ら……」
喋りながら日置はこてんと寝てしまった。
シャツは汚いし、全体的に酒臭いのだが起こすわけにもいかない。
布団をかけてから俺は寝室を出た。
時計を見たらとっくに終電の終わっている時間だった。
どうしようかと頭を抱えてしばらく立ち尽くした。
ぽたん ぽたん
どうやら水道の蛇口が緩んでいるらしい。
強く閉めないと水が落ちてしまうようなので、しっかりと閉め直した。
本当にどうしようかとウロウロしていたら、リビングのソファーには本当にすぐ寝れるように毛布や枕がセットされていた。
どういう生活を送っているのか謎だ。
日置の相手は夜の仕事でもしている人間なのだろうか。
見渡してみると日置が言った通りどこにでも同棲中の恋人の気配がした。
食器棚に二つ並んだマグカップ、カップに入った二本の歯ブラシ、テーブルの上には色違いのクロスが二枚、もう一人の誰かを連想させる光景だった。
なぜだろう。
この景色を眺めていると、やけに胸が重くなってきた。
やはり疲れているのだろう。
とても今から駅に向かって歩いてタクシーを掴まえる気分にはなれなかった。
ここはお言葉に甘えて寝かせてもらおう。
日置がいつも寝ているというソファーに潜り込んだ。
大柄な俺の体には少し小さめのソファーだったが寝心地は悪くない。
散々走り回ったのと、気疲れもあってすぐに瞼は重くなり眠ってしまった。
ぽたん ぽたん
蛇口は閉めたはずなのに、微かに音が聞こえた気がした。
そんな音も気にならないほど深い眠気で全て真っ暗に包まれていった。
□□□
最初のコメントを投稿しよう!