充 ②

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充 ②

 シャワーの栓を開けると、ぬるいお湯が頭に降り注いだ。出だしがぬるいのは仕方ないが、多少冷たくても早く酒臭いのを消してしまいたかった。  ほどなくして熱くなったシャワーを浴びながら最悪だった昨日を思い出して、頭痛を覚えて壁に頭をつけた。  昨夜は勤め先の会社で、年に一度の全社員が集まる飲み会があった。  いつも社内の集まりに顔を出すことはない。  嫌われているのは自覚しているし、俺自身も賑やかな場所が苦手だ。  だが、どんなに嫌でもこの会だけは出ないといけないものだった。  毎年適当に隠れて飲んで、誰とも喋らずにそっと消えるというのが俺の定番だった。  しかし今回は場所取りに失敗してしまった。  よりによってうるさくて評判の営業の連中の隣になってしまったのだ。  しかも役職が上の人達で、俺みたいな下を向いて黙々と食べているようなやつは目についたのだろう。  酒が進んで気が大きくなると、一杯どうだと酒を注がれてしまった。  今まで体質的にダメだと言って乗り切ってきたが、一口くらいいいだろうと言われてグラスを押しつけられてしまった。  こういう風習はさっさと廃れて欲しいのに、まだまだ根強く残っている。特に体育会系の部署の連中はその最たるものだ。  ただでさえ、会場に来る前にも嫌な気分になっていて気持ちが落ちていた。  社内を歩いていたら自分の悪口が聞こえてきてしまった。  おそらく休憩室からで、少し離れたところにあるのに、大声で笑いなが話しているからこっちまでよく聞こえてきた。  このまま歩くと自分の姿が向こうから見えてしまう。仕方なく足を止めて別の話題になるのを待った。  あることないこと言われるのはよくあることだ。役員をやっている叔父の関係で就職したこの会社では、入社当時から陰で色々と言われてきた。  俺自身の性格があるからだと言うことは理解している。  子供の頃は社交的で明るくて誰とでも仲良くなれるタイプだった。  それが学生時代、友人達と拗れたことですっかり人間関係が怖くなって俯きがちになってしまった。  必要以上に人と関わることを避けている。それが原因だということは分かっている。  だからと言って今さらどうにもできなくて虚しく靴の先を見ながら立っていた。  しかしいくら待っても彼らはよほど暇なのか、俺の悪口で盛り上がっていて終わらなかった。  このままだとメール室に渡す書類が遅れてしまう。  仕方なく彼らから見える位置を歩いていくしかなかった。  ほら、噂をすれば。  俺の耳はずいぶんいいらしい。  そんな言葉まで拾ってしまった。  前髪の隙間からチラリと視線を送ると、自分の部署の連中の以外に、他の部署のやつの姿も見えた。  長身で逞しい体つきのいかにも体育会系という男で、確か女性社員達がカッコいい新人と話していた営業のやつだ。  あんなやつまで話に参加していたのかと、余計に胸が苦しくなって足を早めた。  ようやく彼らが見えない位置まで抜けたところで聞こえてしまった。 「マジかよっ、ホモっすか!? うわぁ、俺達気をつけないとな」  ゲラゲラと大きな笑い声が廊下に響いていた。  それを聞いたらいっそう胸がツキンと痛んで、いつもよりもっと俯いてその場を離れた。  そんなことがあったから、変に胸がモヤモヤとしていて、酒は弱いくせに、これを飲んだら忘れられるかと勧められたグラスを手に取った。  ずいぶん飲んでいないので酒の飲み方なんて忘れてしまった。  ぐいっと一気に喉に流し込んだ。  そこからしばらく記憶がない。  気がついたら自分のベッドに寝ていた。  どうやって帰ったか思い出そうとするとズキズキと頭が痛んだ。  ネクタイは外していたが、シャツは据えた臭いがして汚れていたし、汗で体中ベタベタでひどい状態だった。  シャワーを浴びようとしてリビングを通ったら人の気配がして体をビクつかせた。  まさか…  やっと…やっと帰ってきてくれた。  そう思いながら恐る恐るソファーを覗くと、そこで口を開けてグースカ寝ている男を見て昨夜の記憶がよみがえった。  昨夜、酔い潰れた俺をこの男が家まで運んできてくれてた。確か遅くなったから寝ていけとかそんなことを言ったのだ。  熱いシャワーを浴びながらソファーで寝ていた男のことを思い出した。  営業課の新人。  とにかくデカくてガタイがいい。  うちのソファーは大きいものを選んだはずだが、彼が寝ていたら小さく見えた。  健康的な肌に男らしく整った顔立ちで、切り揃えられた髪は清潔感がある。  一見するとイカツイが、笑うとそのギャップがあって営業としてはピッタリで誰からも好感を持たれる容姿だ。  俺は彼が昨日の休憩室での悪口大会に参加しているところを見てしまった。  俺もあんな風になれたらなと、年下だが密かに男として憧れの目で見ていたので軽くショックを受けたのだ。  いや……勝手にそういう話は嫌うのではないかと想像して、勝手に期待して勝手に傷ついただけ。  向こうからしたらいい迷惑だろう。  そんな男が俺を家まで運んでくれた。  面倒なことを引き受けてくれたのだが、俺のささくれた心はまだ警戒心が消えない。  以前も気軽に声をかけてきて、家に遊びに来たいと言ってきた同僚がいた。  俺のプライベートを根掘り葉掘り聞いてきて、それが他の連中からの指示だったことが分かり、それから会社の人間とは極力関わらないようにしていた。  何しろ噂話をしていたあの場にいたのだから警戒するのは当たり前だ。  本人は否定していたが、本当かどうか分からない。  しかしよく考えたらいい機会かもしれないと思った。  前のやつにも俺に男の恋人がいると話したら、周りに言いふらされて少しだけ騒動になった。  距離を置かれるならそれでいい。  別に悪いことをしているわけではないし、もともと誰も寄り付かないのに、これ以上孤独になりようがないからだ。  軽くため息をつきながらシャワーの栓を閉めた。  タオルで頭をゴシゴシ拭きながらリビングに戻ると、物音がしたからかソファーで寝ていた男がむっくりと起き上がった。 「そんなところで寝かせて悪かったな。体は痛くないか?」 「あっ……え? おれ…すっスミマセン…」  寝惚けた頭でぼんやりしていたのだろう。話しかけたら、顔色がさっと変わって慌て出した。 「いや…、ええと、深海だったな。お前が謝る必要ないだろう。酔った俺を運んでくれたんだから。悪かったな、さっき目が覚めたがひどい格好だった。お前も汚れているならクリーニング代は出すぞ」 「いっいいえ! そんなっ、泊めていただいた分際で…。俺は大丈夫です。汚れてませんから……」  そうかと言ってコーヒーでも用意しようと久々にマシンの電源を入れた。 「一杯飲んでいく時間くらいあるだろう。少し待っていてくれよ」 「時間はありますけど…そんな…お構いなく…」  ぐぅぅぅー…と腹の鳴る音が部屋に響いた。  真っ赤になって頭をかく深海の姿を見たら、緩く張っていた警戒心がポロリと落ちてしまった。  同僚との罰ゲームで俺を揶揄いに来たのなら、全然役に立っていない状態だ。 「朝食も食べていけよ。臭い酔っ払いを運んでくれたお礼だ」  キリッとした男らしさは封印したのか、まるで餌を待つ大型犬のような顔で、深海はポカンと口を開けて俺を見ていた。 「うまっ…、最高ですコレ!」  口元にご飯粒を付けながら目を輝かせている男を見て、つい口元が緩んでしまった。  このカウンターキッチンでこんな風に誰かと会話をしたのがずいぶんと久しぶりに思えた。 「飲んだ日の朝はこれがいいってさ。前はよく作っていたんだ。上手くできているなら良かった」  出汁と塩だけのシンプルな卵粥だったが、深海はデカい体に似合う豪快な食べっぷりで鍋一杯をペロリと食べてしまった。  ついでにと焼いたトーストに、ハムと目玉焼きを載せたものにも躊躇いなくかぶりついた。  ミルで挽いたコーヒーを出すと、喫茶店のものより美味しいと言って、こちらもガブガブと飲み干してしまった。  すっかり空になった皿とカップを眺めた深海は、我に返ったように慌て出した。 「あーーーっっ! 俺…うわっ! 何やってんだ……。すみません! お世話になったのにこんなに食べて飲んで…」 「はははっ……いいよ。料理作るのは好きなんだ。ただ自分一人だと惣菜ですませてしまうから、誰かに食べてもらうって久々で…楽しかったし」  深海と喋りながら顔が緩んでいるのを感じた。こんな風に笑うのはどのくらいぶりだろう。使うことがなかったから顔の筋肉が引き攣ってしまいそうだ。  不自然な笑顔過ぎたのか、深海は目を開いて驚いたような顔で俺を見ていた。 「あ……あの、誰かに作るのが久々って……同棲されているんですよね? 彼氏さんは…お忙しい…とかですか?」  意味深な言い方が気になってしまったのだろう。他人に話すのはどうかと思ったが、ここまで話して変に隠すのは不自然だと思った。 「……喧嘩して家出中なんだ。よくあることだから……」 「すっ…すみません! 俺…なんてことを……」 「いいよ。気にしないでくれ」  改めて他人に話すとやけに現実的で寂しく感じるものだなと思いながら、深海が食器を運んでくれたのでそれをシンクに置いた。 「あの……」  また少し言いづらそうに深海が声をかけてきた。俺の恋人のことでも聞くつもりなのかと顔を上げたら、深海は真横に立っていた。 「すみません、せめて食器は俺に洗わさせてください」 「あ……ああ、それじゃ…頼む」  何でもない風に装って、俺は深海に洗い物を譲った。  リビングのソファーに座ったが、深く息を吸い込んで落ち着こうとしても、まだ心臓がドキドキしていた。  深海と肩が触れ合ってしまった。  昨夜は運んでもらったのでそれどころではないが、シラフで人に触れたのが久しぶり過ぎて驚いてしまった。  道彦ひとすじで生きてきた俺が、男を部屋に招いているなんて知ったら道彦は何と言うだろう。  バカなことをと思って頭を振った。  これは浮気でもなんでもない。  酔い潰れた俺を運んでくれたただの後輩に飯を食わせただけだ。  道彦は自分のことは棚に置いて、俺が友人でも作ろうものならいい顔はしなかった。  それは付き合う前からそうだった気がする。  だから俺には友人と呼べるような相手はいない。社会人になってからはますます他人と距離を置いてしまい、気軽に飲みに行くなんて相手は一人もいなかった。  もし誰か一人でも道彦のことを相談できる相手がいたら、また違ったのだろうか。  自信を持て、好きなら信じてやれ、そんな風にかつて俺が道彦に伝えたように俺に言ってくれるような友人がいたら……。  もう、遅いのかもしれないなと思いながら静かにため息をついた。 「……さん……日置さん?」  ぼけっとソファーに座っていたら、洗い物が終わったのだろうタオルを持って深海が俺の前に立っていて声をかけてきた。 「ああ、すまない。まだ頭がぼーっとしているんだ」 「まだ寝た方がいいですよ。部長に飲まされて酒弱くて倒れたんですよね。あれだったら二日酔いの薬でも買ってきましょうか?」 「大丈夫、寝れば治るだろうから」  分かりましたと言って帰り支度を始める深海を背にして、俺は日課になっているサイネリアの鉢植えに水をあげた。  視線を感じて振り返ると、深海が不思議そうな顔をして立っていた。 「日課なんだ。寝直すにしても、朝はこれをやらないと気が済まなくて」 「は…はあ……」 「ああ、もしかして深海は花を育てたりはしない方だろう」 「ええ…はい、そういうのは苦手で……」 「分かるよ。俺もそうだった。恋人が買って来なければ部屋に観葉植物すら置かない人間だったから」  個人的にあまり深入りはしたくないのだろう。深海は気まずそうな顔をして立っていた。  俺は曖昧に笑ってから、何か忘れ物はないかとソファーの周りをチェックした。  玄関まで送ると深海は何か言いたそうな顔をしていたが、どうしたと聞くと焦ったように顔を背けて、ありがとうございますと深々と礼をした後、あっさりと部屋を出て行った。  玄関の扉が閉まって一人になると、いつもの静寂が部屋を包んだ。 「………こんなに静かだったかな」  物音ひとつしない部屋を眺めながら、今さっきまで深海が座っていたスツールに触れた。  木製のスツールはすでに冷えていて温もりは感じられなかった。  それが無性に寂しく感じてしばらくそこから動けなかった。  □□□
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