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隆聖 ②
バタンと小さく音を立てて閉まったドアの前で、力が抜けて座り込んだ。
こんなところで座っていたら不審者にしか見えない。早く動かないといけないのに足に力が入らない。
言えなかった。
あの時のお礼を言うつもりで喉まで出掛かったのに、言うことができなかった。
寝床に食事まで用意してもらって良くしてくれたのに、肝心なことが言えずに部屋を出てしまった。
なんて情けなくてダメな男だろうと項垂れた。
少し前のことだ。
取引先に失礼をしてしまい、そこの工場の社長が怒鳴り込んできた。
本当は俺と同行していた先輩のミスだったが、先輩は俺のせいにしてさっさと謝ってこいと押し付けてきた。
仕事をやっと覚えたばかりの新人、だが相手にそんなことは関係ない。
エントランスで怒鳴られて、俺はパニック寸前だった。
逃げ出したくてたまらなかった。
自分は関係ないのでとは言えないし、ひたすら謝って宥めようとしたが、そんな態度がよけいに火をつけてしまった。
周囲は遠巻きに見ながら誰も助けてくれなかった。
辛くて悔しくて恥ずかしくて、唇を噛み締めていた時、俺の前に立ってくれたのが日置さんだった。
直属ではないが上司だと名乗って、まず不手際を謝罪した。
会社として迷惑をかけたお詫びと、担当の部署の責任者に話を繋ぐのでと言って、すぐに会議室に案内した。
何を言われてもすみませんと、ロボットのように口にしていた俺とは大違いの流れるように自然な対応だった。
気がついたら怒り狂っていた先方も冷静さを取り戻して、大人しく日置の案内に従ってくれた。
俺は呆然として立ち尽くしていたが、案内しながら社の中へ入っていく日置がポンと背中を叩いてくれて、よく頑張ったなと誰にも分からないように小さく言ってくれた。
その後もしばらく動けずに立っていたが、何が起きたのか理解したら足が震えていたことに気がついてその場に座り込んだ。
怖かった。
何も言い返せない相手に、ひたすら怒鳴り続けられて俺は怖くてたまらなかった。
あの時、助けてくれたことのお礼がずっと言えずにいた。
どうして、チャンスだったのにと思いながら、情けない自分に頭を抱えた。
「おい聞いたぞ」
エレベーターを待っていたら、ポンと背中を叩かれた。ニヤニヤした顔の同期が立っていて、金曜は大変だっただろうと意味ありげな視線を送ってきた。
「何がだよ」
「何ってお前……、あの人を家まで送ったらしいじゃないか。部長に頼まれているところを見た人がいてさ、大変だったな」
俺の肩に手を置いてきたので、俺は腕を上げて振り払った。
「別に……何も大変じゃなかった」
俺の素っ気ない態度を恥ずかしがっているとでも取ったのか、同期はまだニヤニヤとして顔を近づけてきた。
「もしかして、掘られちゃったとか? ケツは大丈夫か?」
頭に血が上って同期の胸ぐらを掴んだ。
間近で睨みつけて、今にも殴ってやろうかと手に力を込めた。
周囲からどうしたという声が上がり、やばいやばいと騒ぎ出して、おいやめろと間に先輩達が入ってきた。
「よく知らない人のことを勝手に悪く言うのはやめろ。次にふざけたことを言ったら本気で殴るからな」
ばっと手を離して、開いていたエレベーターに乗り込んだ。
ドアが閉まる瞬間、口を開けて放心状態の同期の顔が見えたが、なんであんな男と今まで普通に話していたのかと思うと、自分にすら腹が立ってきた。
一緒に乗り込んでいた同僚達から喧嘩かな? とヒソヒソとした声が聞こえたがどうでよかった。
俺が怒って暴れたとしてもただ周りに動揺が広がるだけだ。
日置のことをなんとかしたい。
俺みたいなやつに気を使われるなんてごめんだと言われそうだがどうしても納得がいかない。
過ごした時間はわずかだが、こんな風に陰で悪く言われるような人ではなかった。
モヤモヤした胸を掻きむしるようにしながら、怒りに震えたのだった。
「仕事で迷惑をかけるようなタイプじゃないのよ。むしろみんなをフォローしてくれるし、やることはキッチリやってるの。うちの課長もその辺わかっているから、休みが多くても文句は言わないの。私もあまり関わってはいないけど悪くは思っていないわ。というか、ほとんどの人は私と同じ意見だと思う。文句言っているのは一部の人だけよ」
唯一の知っている総務の女性の先輩をお昼に掴まえて、奢るからと言って日置の話をさりげなく聞き出すことにした。
社の近くの蕎麦屋で、天ぷら蕎麦をすすりながら、日置の一つ下だという先輩は色々と話をしてくれた。
「それなら、なぜ日置さんがあそこまで悪く言われて変な噂まであるんですか?」
「単純に憂さ晴らしよ。成績が悪かったりミスが多くて上から責められている人達が、何を言っても言い返して来ない日置さんに目をつけて、言いたい放題やってるの。それに……日置さんも、周囲とは距離を取って拒絶している感じがして私達も近寄り難くて……」
なるほどと実情を聞いて納得してしまった。同期は確かにミスが多く伸び悩んでいた。同じように悪ノリで日置を責める先輩達に同調してしまったということだろう。
「長く病休を取っていたというのは……」
「それは本当よ。理由は詳しく知らないけど、一度休んでから出てきて、早すぎたのかまた休んで、しばらくしてから出てきて…。繊細な人なんだと思う。遊びたいからなんて言う人もいるけどとてもそうは見えないから」
繊細、その言葉は日置のためにあるようにすら思える。
あの意味のない行為も俺には理解できないが、きっと日置にとっては大事なものなのだろう。
儚げに笑う口元を思い出してぶるりと震えた。
「ところで、なんで深海くんが? 日置さんと仲良かったっけ?」
「……仕事で助けてもらったことがあって。悪く言われているのが納得できなかったんです。ギャンブルとか遊び歩いているとか……そんな人だと思えなかったから……」
「まあ、深海くんて正義感が強いのね」
正義感と言われてポカンとしてしまった。まあそうですねと適当に返事をしてみたが、自分がやっていることが正義感なのか、そう言われると違う気もする。
それとも義理堅く、ただお礼が言いたいからなのか、頭の中が渋滞してよく分からなくなってきた。
蕎麦屋を出て先輩と別れて信号待ちをしていたら、近くのコンビニから日置がフラリと出てきたのが見えた。
今日も長い前髪で顔を隠して俯きがちに歩いていた。
ぱっと見はやはり暗い印象しか受けない。
しかし俺は、日置の別の顔を知ってしまった。
一晩泊めてもらった翌日、物音に目を覚ますと、濡れた髪の毛を拭きながら日置が浴室の方から歩いてきた。
石鹸の優しい香りが部屋に漂ってきて、俺と目が合った日置はわずかに微笑みながら話しかけてきた。
シンプルなシャツとズボンという何でもない格好だったが、面倒なのかボタンは適当に止められていて、白い胸元がチラリと見えた。
何より前髪を上げた日置は、驚くほど綺麗な目をしていた。切長で少し垂れた目元に、目尻には小さな涙ぼくろ、まつ毛は長くてその奥の瞳は薄い茶色だった。
あの下にこんな美貌を隠していたのかと、心臓がどくどくと波打つのが分かった。
どちらかと言うと儚げな美人。
青白い顔と痩せた体つきがいっそうそれを強くさせていた。
後ろに流した前髪からぽたりと雫が落ちて、首筋に流れたのを思わず言葉を失って見入ってしまった。
おまけに腹を空かせた俺に朝食まで作ってくれた。
美味しすぎて手が止まらず、バクバクと平らげてしまった。
俺を見ながら日置は笑っていたが、その笑顔が悲しげで、まるで泣いているみたいに見えて、いつまでも頭に焼きついて離れなかった。
「日置さん、コンビニ飯ですか?」
今日も背中を丸めて寒そうにしている後ろ姿に声をかけると、分かりやすいくらいビクッと揺れた。
「あ…あ…、深海か」
「あれ、覚えていただけましたか。嬉しいな、先日は泊めていただいて飯までありがとうございました」
「いや…いいって。……その……お前は大丈夫か?」
俯いたまま目は合わせてくれなかったが、俺の体調を気遣ってくれたのかと驚いた。
もしかして、この休み中、俺のことを少しでも思い出してくれたのか思うとトクトクと心臓が高鳴った。
「朝から喧嘩をしたらしいじゃないか……。どうしたんだ? いや…俺がこんなことを聞くのもおかしいが…耳に入ったから……」
そういえば同期は日置と同じ部署だったなと思い出してため息をつきそうになった。
「はぁ…何か聞いてます?」
「俺にはあまり詳しい話は入って来ないから。……血気盛んなのはいいが、あんなところで怪我をしても労災は出ないぞ」
「はははっ、気をつけます。ただどうしても我慢ができなくて……」
「若いなぁ……。俺にもそういう時があったかな」
日置はクスリと笑った後、わずかに目線を上げて信号を確認した後に歩き出した。
いつの間にか信号は変わって青になっていたらしい。
俺がついて来ないのに気がついた日置がくるりと振り返って、ほら青だぞと声をかけてきた。
それでやっと足が動いた。
待ってくださいと言いながら俺は日置の背中を追った。
信号が変わったことにも気がつかないくらい、俺はずっと日置のことしか見ていなかった。
トクトクと鳴り続ける心臓の音が頭に響いていて、その意味が、なんとなく分かり始めていた。
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