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充 ⑤
貴方のせいよ
貴方のせいで苦しんで……
女性の声。
ナイフのように尖っていて、
俺を追い詰めていく。
ごめんなさい
ごめんなさい
貴方が好きになんてならなかったら
そう、俺が……好きになってしまった。
俺が無理矢理関係を持って、ここに縛りつけて……
お願いそれだけは
それだけは持っていかないで
それだけは………
目を開けると自分が泣いていることに気がついた。
ソファーの上に丸くなって、先ほどまで見ていた悪夢を思い出そうとしたが、霧のように消えてしまった。
こんなことがよくある。
仕事中は気を張っていて何も考えずに没頭できるのだが、一人になるとだめだ。
こんな風に明け方に悪夢を見て飛び起きるなんてこともよくあった。
そんな時、何が現実で何が夢なのか全てが曖昧になってしまう。
今の俺が現実だと思って生きているのは夢の中なのかもしれない。
日置さん
深海の声が頭に響いた。
深海は優しい瞳で包み込むように俺を見てくる。
その優しさに慣れてしまったからだろうか。
最近は道彦の顔すらぼやけてしまう時がある。
だめだだめだ。
しっかりしないと。
俺は道彦が好きで、道彦の帰りを待っている。
そうじゃなきゃいけない。
そうじゃなきゃ……
週末に深海が遊びに来るのはもう当たり前になった。
時間なんて特に約束しなくても、深海はやってきて、最近では土日続けていることもある。
インドアな俺に合わせて、いつも家でまったりしているが、本当にそんなことで楽しいのか疑問しかない。
深海から告白された。
未来のない想いなど抱いて欲しくなくて、なんとか会社で一週間避け続けた。
同じ部署に深海の同期がいるので嫌でも深海の話が聞こえてくる。
何やらミスを連発して大目玉を食らったらしい。
誰もが珍しいと言って不思議がっていた。
深海は仕事は特に慎重で丁寧にやるタイプらしい。上からの評価も高くて期待されている。
そんな男が荒っぽいミスなんて何かあったのか?
みんなが不思議がっていて俺は居心地が悪かった。
これは逃げてばかりじゃいけないと思っていた週末、やはり深海は訪ねてきた。
仕方なく家に上げたら、切ない胸の内をぶつけられた。
道彦に片想いしていた頃の自分の姿と重ね合わせてしまった。
女が好きでもいい。
友達でいさせてくれ。
嫌わないでくれ。
そう繰り返していた自分と対峙しているかのようだった。
そんな姿を否定することができなかった。
いや、俺自身、深海が来てくれる生活が楽しみになっていた。
今手を放したらまた孤独な冷たい日々に戻ってしまう。
寂しいから自分を好きでいてくれる人の弱みにつけ込んで、一緒にいてもらう。
心を利用している。
俺はつくづく最低な男だ。
ルールを決めた。
会うのは週末。
会社では必要以上に話しかけない。
お互い無断で触れてはいけない。
好きな人ができたら、もしくはそのチャンスがあればそちらを優先すること。
薄氷の上にあるような関係。
それでもいいと言って深海は受け入れてくれた。
「これ、絵葉書ですか?」
食事が終わって片付けをしていたが、テレビを見ていると思っていた深海から声がかかった。
何の話だと振り向くと、写真立てのコーナーに置いてあったものを深海が手に取っていた。
家にあるものは好きに触っていいと言っているので、俺はそうだと返した。
「道彦がくれたんだよ。付き合う少し前かな…、その花が俺によく似てるって……」
「へぇ……、絵まで描けるなんて多才な人ですね。この絵の花はなんていう名前ですか?」
「サイネリア、そこの鉢植えのがそうだ。道彦がフラリと買ってきたんだよ。青色が俺のイメージなんだってさ、言うことが芸術的家らしいだろう」
「…………」
自分から話を振ってきて深海は沈黙してしまった。嫌なら聞かなければいいのにと思いながら、沈黙も嫌なので話を続けることにした。
「深海は家に花を飾るタイプじゃないだろう。俺も……花は苦手なんだ」
俺の話になったからか、深海はそうなんですかと言いながら、絵葉書を置いてキッチンに戻ってきた。
「水切りってやったことあるか?」
深海がブンブンと首を振ってスツールに座ったので俺は話を続けた。
「花瓶に飾る前に花を長持ちさせるために、水中につけた状態で斜めにハサミでカットするんだ。確か水圧の関係で水を吸い込みやすくなる、だったか…、道彦に教えてもらったんだ」
二本の指をハサミのようにして、水の中でパチンと切るような仕草をすると深海は興味深そうに見てきた。
「……初めてそれをやった時、怖かったんだ」
「怖かった?」
「まるで命を切り落としているみたいで……、花が悲鳴をあげてる……みたいな想像までしちゃって……。バカだろう、同じ命ならスーパーで買ってきた肉を切るのと一緒なのに、花だけ怖いなんてさ。差別しているわけじゃないけど……って変な話してごめん」
今話したのは花は苦手だと言った俺に、道彦が言った言葉だった。
命はみんな同じなんだから、充の考えはおかしいと。
「食べるか食べないかの違いじゃないですか?」
「……は?」
「肉は変な話ですけど、自分の胃の中に入れて最後まで面倒見るじゃないですか。花は飾ったとしても見て楽しむだけで、最後は枯れてしまったら捨てるだけですから。何というか、俺も花の美しさを愛でるほどの審美眼を持ってないし、俺には贅沢だなって思っちゃって苦手です」
深海の素直すぎるシンプルな意見に心が震えた。
道彦に価値観がおかしいと言われて、萎んでいた心に水をかけてもらったみたいだ。
「命は同じってのはもちろんそうだと思いますけど、それをどう感じるかは人それぞれでしょう。恥じたりする必要ないですよ、日置さんなりに命に向き合ってそう思ったんですよね」
「……そうだ」
「それならいいじゃないですか。日置さんはやっぱり優しい人だ」
深海は目を細めてふわりと微笑んだ。
俺は一瞬何を言われたのか分からなくて、目をぱちぱちと瞬かせた。
深海の目に俺はそんな風に見えているのか。
信じられなくて驚いたが、胸に落ちてくるとじんわりと温かくなった。
そんな風に言ってくれる人がこの世にいるなんて、心地よくて、嬉しかった。
優しげに細められた目元に触れてみたかった。
どんな感触なんだろう。
そのまま顔を滑らせて形のいい唇を指でなぞりたい。
都合のいい妄想が浮かんできて、慌てて目を閉じた。
繁忙期が過ぎて社内はやっと落ち着きを取り戻した。
昼食はいつものコンビニ飯だ。
今までサラダとお茶ですませていたが、よく食べるようになったので、おにぎりも追加で買うようになった。
お気に入りのシーチキンが残っていたので、ちょっと明るい気分になって外へ出た。
会社に戻る交差点まで来たところで目の前から歩いてきた女性と目が合った。
女性は俺と目が合うとひどく驚いた顔になって目を見開いた。
知り合いかなと思いながらどこで会った人が思い出そうとした。
「……こんなところで会うなんて、会社はこの近くなの?」
思い出す前に女性が話し始めてしまった。
頭に白いものがあり顔に刻まれたシワから、歳はとっていそうだと分かったが老いていても綺麗な女性だった。若い頃はきっとかなりの美しさを誇っていただろう。
こんな印象的な人を忘れるなんてと、まだ頭がうまく働かない。
「あ…あの……」
「今更かもしれないけど、謝りたいと思っていたのよ。あの頃は気が動転していて……私は冷静になれなかった。後悔しているの、私はちゃんとあの子を愛せなかった。その後悔を誰かのせいにしたくて……貴方に当たってしまった……」
この人は何を言っているのだろう。
理解できない。
誰かと間違えているのではないか……
何の話? 愛した? あの子?
いったい誰のこと?
「あの……、どこかでお会いしたのでしょうか?」
「え? まさか……忘れてしまったの?」
「あの…、すみません、仕事関係の方でしたら、大変失礼を……」
「貴方……日置充さんよね?」
「はい、そう…ですが……」
次に女性から出てきた言葉を聞いて俺は体を震わせた。
聞き間違いかもしれないと思いながら、何度も頭の中で繰り返した。
「道彦の母です。五年前……一度だけお会いしましたよね?」
パリンッ!!
頭の中で何かが割れる音がした。
貴方のせいよ!
男と暮らすなんて……だからあんなことに……
すみません
ごめんなさい
ごめんなさい
貴方が殺したようなものね
返して
私の道彦を返して!!
手に下げていたビニール袋が落ちて、中身が地面に飛び出した。
その様子が目に入ったのが最後、目の前が真っ暗になった。
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