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充 ①
ぽたん
ぽたん
シンクの上に水が落ちる音がする。
ぽたん
ぽたん
時計のリズムよりも正確に、頭の中に響いてくる。
俺は床に転がったまま、天井の照明を眺めていた。
もうすぐ冬を迎える。
コンクリートの硬い床は冷たかったが、自分の体温が奪われて体が冷えていくと安心する。
こんな風に床に転がっているところを、帰ってきたアイツが見たらなんと言うだろうか。
大丈夫か、こんなに冷たくなって寒かっただろうと、そう言って抱きしめてくれるのを何度も想像する。
しかし、玄関のドアは固く閉ざされていた。
同棲している恋人、鹿島道彦は今日も帰って来なかった。
道彦に出会ったのは俺が小学生の時。
道彦の母親は綺麗な人だった。
当時、夜のお店で働いていると子供の耳に入るくらい、親達の間でその美貌は噂になっていた。
複雑な家庭、母子家庭だった道彦の家のことを、大人たちはそう呼んでいた。
初めて道彦に会った時、彼は暗い目をしながら俺のことを見てきた。
俺は幼稚園時代から明るくてひょうきんと評判で、友達もたくさんいて、道彦とも当然仲良くなれると思っていつもの調子で話しかけた。
しかし道彦は俺のことを虚な目で見た後、何も言わずに側から離れて行った。
結局その一度だけ、話したとも言えない接触があった限りで、道彦は三年生の時に静かに転校してしまった。
そんな苦い思い出を忘れるくらい時間が経ち、俺は地元の高校へ進学した。
その時、前の席に座ったのが道彦だった。
その時の印象は小学生時代とは真逆で、ずいぶんと派手な男が前に座ったなと思った。
明るい茶髪にピアス、着崩れた制服。校則の厳しい学校ではなかったが、明らかに周囲とは違い目立っていた。
それでも俺は相変わらずいつもの調子で話しかけた。
¨ よぉ、俺、日置充。よろしくな ¨
声をかけられて振り返った道彦は、俺のことを不思議そうな目で見てきた。
¨それ、なんか聞いたことがある¨
それが第一声、道彦が初めて話してくれた言葉。
あの無表情だった小一の頃とは違い。
チャラく成長した道彦は、笑顔でよろしくと答えてくれた。
向こうは俺を覚えていたらしいが俺はすっかり忘れていた。名前を聞いてもしばらく思い出せなくて、同じ小学校だったと聞いてやっとあの暗い目をしていた少年を思い出した。
小三で引っ越した道彦は、母親とともに複数の男の家を渡り歩いたらしい。
思春期を迎え、母親が男を変える度に付いて行くのにも限界があった。
結局、高校は母親の実家のあるこちらに戻ってきた。年老いた祖母が一人で暮らしていて、道彦もそこで暮らす事になった。
派手でチャラくて浮いていた道彦だったが、母親によく似た綺麗な顔をしていたし、どこか都会の匂いを感じさせる危ない雰囲気に、女子生徒達はあっという間に虜になった。
高校時代はクラスの女子だけでなく、先輩後輩と毎日のように女子達から告白されていた。
道彦は告白されたら、だいたい断らずに誰とでも付き合った。何股なんて数えたこともないのかもしれない。
当然男達からは反感を買っていたが、本人は我関せず、向こうから来るから仕方がないと好き勝手に付き合っては飽きたら捨てるというのを繰り返していた。
そんな男としてはずいぶんクズだった道彦と、なぜ俺はずっと友人でいたかといえば、一緒にいて楽だったからだ。
まるで空気のような存在だった。
誰とでも仲良くなれて友人も多いと思っていた俺だったが、ある時クラスで孤立するようなことが起こって、友人だと思っていたヤツらがぱらぱらと散るように消えて行ってしまった。
一人でいることが当たり前になってしまったが、気がつくといつも隣に道彦がいた。
初めは嫌われ者同士馴れ合うなんてまっぴらだと思ったが、道彦はうるさく話しかけてくることも、ふざけることもなく、ただじっと側にいてくれた。
一緒にいることが当たり前になると、普通に会話するようになり、そのうち何でも道彦に打ち明けるようになった。
道彦はやはり、じっくりと話を聞いてくれて、時に厳しく優しく返事をくれた。
一緒にいて安らげる空気を持っている相手、それが道彦だった。
俺にとって道彦はなくてはならない存在になり、道彦がいないと不安になった。
高校の途中からはこれがただの友情ではなく、恋だと気がついていた。
好きだけど、恋がなんだかはまだよく分からずに、友人として一緒にいられることで満足していた。
それから偶然にも同じ大学に通う事になり、バイト先まで一緒だった。
どこへ行ってもモテる道彦だったが、俺との約束は必ず優先してくれた。
そんな時、俺の誕生日に飲もうという話になり、自宅でいつものように飲みながらくだらない話をしていたが、その時、道彦に当時の彼女から連絡が入った。
風邪をひいたから看病に来て欲しいという連絡だった。行かないとうるさいからと言いながら、道彦は彼女の元へ行ってしまった。
ショックだった。
道彦が買ってきてくれたケーキを食べた時、虚しくてぼろぼろと泣いてしまった。
体調が悪いのだから仕方がない。
いつもならそう思えるはずなのに、どうしてもそれで納得ができなかった。
なぜここにいてくれないのか。
心のどこかで自分だけ特別だと思い込んでいたが、俺は道彦にとって、本当にただの友人の一人だった。
それがはっきりと分かってしまった。
虚しくて心がほとんど空っぽになってしまった。
その中に唯一残ったのが、道彦が欲しいという気持ちだった。
どうにかして手に入れたいと願った。
もともと女の子に興味が持てなかったが、ちゃんと好きだと思ったのは道彦が初めてだった。
淡い恋心は燃えに燃えて、欲しくて欲しくてたまらなくなった。
だが、男に興味がない道彦が、俺の方を向いてくれるなんてそんな奇跡はない。
他のやつらより、ほんの少し仲のいい友人。きっと道彦にとって俺はその程度。
好きだなんて伝えてしまったらこの関係から壊れてしまう。
笑いながら話しかけてくれることもないかもしれない。
そんなことは絶対に嫌だった。
だから俺は友人として側に居続けること選んだ。
道彦が彼女を変えるたびに、どんな子だと話を聞いて、彼女と別れるたびに、元気を出せよと慰めた。
大学を卒業し社会人になっても変わらず友人の関係は続いた。
一度は就職した道彦が別の道に行きたいと悩んだ時もずっと話を聞いていて、俺が背中を押した。
道彦の女関係は相変わらずで、月単位、時には一週間ごとに付き合う女性が変わっていた。
ある時、珍しくひと月を超えて付き合っていた女性がいたが、やはり浮気を責められて嫌になった道彦は別れを告げた。
俺の部屋で道彦は酒を飲みながら、誰とも上手くいかない関係を嘆いていた。
いつもより酔って涙まで流している道彦を見た俺はもう我慢ができなくなってしまった。
弱みにつけ込んだ。
ずっと好きだった。
そう言って道彦を押し倒した。
誰とも体を重ねたことなどなかった。
男が生理的に無理ならもう諦めるしかない。
しかし道彦のソコは反応した。
俺は自分で後ろを広げて上に乗った。
初めてはまるでセックスとはいえないひどいものだった。
痛くて苦しかった。
友人を襲ってしまった俺の罰だと思った。
そして俺達は友人にはもう戻れないのだと。
全て俺が終わらせてしまった、そう思った。
だが、道彦はそんなことがあってからも俺に変わらず接してきた。
なぜ態度が変わらないのか、怖くて聞くことができず、苦しい日々を過ごしていた時、道彦は俺に付き合おうと言ってくれた。
道彦も悩んだが、俺から離れることなど考えられないと思ってくれたようだった。
その時は死ぬほど嬉しかった。
ついに長年の片思いが実り、道彦の恋人になることができた。
ずっと一緒にいた俺なら簡単に捨てられることはない。
きっとこの先もずっと、道彦と一緒に生きていける。
そう、思っていた。
最初はその通り、道彦は俺に夢中になった。
もともと寂しがり屋の男だ。
どこにいても連絡が来て、会えばずっとくっ付いていた。
男の体など知らなかったくせに、もう女には戻れないなんて言うくらい、俺を求めてきた。
離れたくないと、すぐに同棲を始めた。
それから一年くらいはずっと幸せな日々が続いた。
この日々がずっと続いていくと信じていた。
思えば仲の良い友人関係を無理矢理変えて、自分の世界に引き込んでしまったのは俺だった。
その負い目が常に胸の中にあった。
些細な出来事が積み重なり、やがて大きな不安になって襲いかかってきた。
道彦と付き合った女の子達が感じたであろう不安。
俺はきっと大丈夫だと思っていたけれど、俺も例外ではなかった。
帰りが遅くなった。
飲みに行く回数が増えた。
連絡をしてもすぐに既読にならない。
今まで気にならなかったことが、気になって、少しずつ言い合うことが増えていった。
服についた香水の匂い、セーターに絡んだ長い髪の毛。
違う違う、きっとそうじゃない。
思い過ごしだ。
問い詰めたらだめだと思いながら、気がつくと、どういうことだと怒鳴っていた。
もともと交友関係が広く、よく飲みに行く人間だったし、友人時代に何度も恋愛相談を受けて、束縛を嫌う男だというのは知っていた。
だから口にしたくなかったのに、女の匂いがするたびに、自分が止められなくなってしまう。
今日はどこに行っていたの?
誰と会っていたの?
どうして遅いの?
どうして連絡してくれないの?
嫌だ嫌だと思いながら、口から出てくるのはそんな言葉ばかり。
その度に道彦は嫌そうな顔をしていて、そんな顔を見るのが俺だって辛くてたまらなかった。
道彦も最初は根気よく説明してくれて、俺を不安にさせまいと頑張ってくれていたと思う。
しかし道彦は、元々男が好きだったわけではない。
特に外では一緒にいることを嫌がった。
友人と歩いている道彦に会った時、あからさまに嫌そうな顔をされたことがある。
俺のことを恋人だとは紹介してくれなかった。
ただ、高校からの友人だと言われて、その通りの顔を作ったが、切なくて悲しかった。
分かっている。
男の恋人など、周囲は簡単に受け入れてくれない。
俺だって、大きな声で言って歩いてもらいたいわけじゃない。
道彦が必死に隠そうとしている姿に、イラついたり悲しくなったり、そんな積み重ねがお互いを削っていった気がする。
喧嘩の度に、道彦は家を出てしばらく帰ってこなくなった。
女の家を渡り歩いていることは人伝に聞いて分かっていた。
それでもしばらくすると道彦は、やっぱり充じゃないとだめだと言って戻ってきてくれた。
俺も泣きながら、もううるさく言わないから出て行かないでと言って、その度に道彦を受け入れた。
うんざりするくらい、その繰り返しだった。
そしてまた酔って明け方帰ってきた道彦と喧嘩をした。
言い合いになって道彦は出て行ってしまった。
きっとまたしばらくしたら帰ってくる。
そう思って、開かないドアを毎日見つめている。
自分が引き込んでしまった。
その思いがあるから、手を離せずにいる。
道彦がまたドアを開けて入ってきたら、俺は喜んでお帰りなさいと言ってしまうだろう。
しかしこんな繰り返しを続けて、俺達に未来はあるのだろうかという気持ちもある。
この頃は、待ち続ける心がすっかり疲れてしまって、ため息ばかり付いていた。
ずっと床に転がっていたが、今日も道彦は帰って来なかった。
のっそりと起き上がって、いつだったか道彦が買ってきてくれたサイネリアの鉢植えに水をあげた。
真っ青なサイネリアの花は、充によく似ている。
道彦の言葉を思い出しながら、いつ花が咲くのだろうと思って小さな蕾を見ながら待ち続けている。
今日も花は咲かなかった。
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