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女性は痛みに強いらしい。
「大丈夫、痛いね、痛いね。」若い助産師が美穂の腰を必死にさすっている。下半身の酷い痛みが身体を支配しているはずなのに、不思議と点滴の刺さる左腕の僅かな痛みも感じている。
痛い、とにかく痛い。「いたい!いたい!」と、どこか遠くで大きな声がするような気がしていたが、それは自分の声だと美穂は気が付き、歯を食いしばった。
「女性って男より痛みに強いらしいよー。」
先日、リビングのソファでだらしなく寝ていた夫が言っていた。本当にそうなのだろうか。耐えるしかないものだから耐えているが、正直投げ出したい、痛い、そしてつらい。
「もう、やめたい、むり、むり」つい、美穂の口から弱音が飛び出す。助産師は黙って美穂の腰を強くさすりつづけている。その首筋にはじんわりと汗が滲んでいた。
「相田さん、移動しますよ。」
陣痛と陣痛の間で、部屋を移動する。なんだか夢を見ているようだ、悪夢だ。「いたぁい!」他の部屋から、知らない女性の叫び声がする。色んな思考が脳を支配する中、どうにか分娩台にあがり、助産師や医者の声に合わせて美穂は腹に力を入れる。
どうしようも無く、痛い。
女性は痛みに強いらしい。それは命を生み出すからなのかもしれない。愛する命をこの手に抱いた瞬間、全てを愛で包み込むことができるからなのかもしれない。
会陰切開もなかったため、ずるりと落ちる感覚がリアルに感じられる。ああ、おわった。終わってしまった。何もかも、終わってしまったのだ。
「相田さん、」
医者にも、助産師にも、華やかな笑顔はない。ただ、美穂は酷い痛みから解放されたのだ。なのに、痛みが無くなった今、美穂は嗚咽を吐いて、止まらぬ涙を流していた。
銀のトレーにのせられた小さな命は、産声をあげることも無く、横たわっている。
「心臓が…止まっているね。」
先日、主治医にそう言われた時、人生で一番の絶望を感じた。身体の真に冷たい水が落ちていくような嫌な感じだ。これから起こりうることに、悲しみという感情しか伴わない現実が、美穂の心を貫いた。
「促進剤を使って陣痛を起こしてね、普通の出産と同じように、胎児を出します。」
美穂は自分が「そうですか」と落ち着いて答えたのを、まるで第三者のような心持ちで感じていた。
産んでも、会えない命。それを私は、産み落とす。
女性は痛みに強いらしい。
女性は痛みに、強いのだろうか?
女性は弱いのだ。ただ、耐えることができるというだけで。弱く、細く、耐えている。
「一緒に、寝ますか?」
休憩室に移動した美穂に、助産師が声をかけた。手には小さな命が抱かれている。美穂は小さく頷いた。大きな服を着せられた赤子は美穂の横に小さく納まった。
助産師がでていくのを確認して、美穂は身体を起こすと、恐る恐る赤子を膝にのせる。小さく、細く、柔らかい、女の子だった。
「あ、ありがと、ねぇ」声になったようで、ほとんどならなかった有難うが、涙となって赤子に落ちていく。分娩室から、元気な産声が聞こえてくる。なんて残酷なんだろうか。なんて悲しい出来事なんだろうか。
朝日がのぼり、窓から光が落ちた。決して泣かない赤子の顔がじんわりと太陽に照らされ、まるで寝ているようだ。
ごめんね、ごめんね、愛してるよ、ごめんね、大好きだよ、ありがとう、ごめんね、大好きだよ、ありがとうね、抱きしめたかったよ、会いたかったよ、お誕生日おめでとう、わたしの愛しい子
美穂は止まらぬ涙を流しながら、気がつけば赤子をあやすように揺れていた。
体の痛みなど、もうすっかり忘れていた。
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