冬の蝶々

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「Messieurs Shinryuji」 呼ばれて背を起こすと、逆光に影になっているエボニーの肌のウェイターが、深々とおれの顔を覗き込んでいた。彼の眼と歯が真珠のように白く光って、するどく眼を射る。  「すまんな。心配かけたか」  わらって謝罪すると、彼はほっと肩の力をぬいて「さいきん、すこしお疲れのご様子です。あまりお出かけにならないほうがよいのでは?」と流暢なフランス語で提案しながら、テーブルにグラスをふたつ置いた。ダイキリはおれのほうに、そしてバルボタージュは、となりの空いている椅子のほうに。  「奥さまはシャンパンが、とりわけルイ・ロデレールがお好きでしたね」  おれはうなづき「あまりぜいたく言わん女だったが、酒と茶にはうるさかったな」とぼやいた。ウェイターがほほ笑む。「オムレツの焼き加減にもですよ」  燃えるような残照のただなか、一礼して去っていくベストの背中に、おれはダイキリのグラスを掲げて謝意を示す。そのままひとくち、ひややかな酒精をのどにすべりこませてから「ここに長逗留しとると、おまえを覚えとるもんが多くて驚く」  くりかえし耳に届く潮騒。その合間にたしかにおれは、おまえのかすかな息づかいを聴く。  「仕事以外の旅行には、あまりつれて行ってやれんかったからな。罪滅ぼしだ」  おれはとなりの椅子に視線をめぐらせる。どこか甘い匂いをはらんだ風と夕凪、そしてきららかな黄昏の絢爛に誘われたのか、小首をかしげて笑っているおまえがそこにいる。「香織」  かすかに汗をかいているバルボタージュのグラスに、おれはダイキリのグラスをあわせて「日本にもどる気はもうないな。ベイスターズも勝てんし、いいオーケストラもなかなか来ない。それに、あいつらもそこそこモノになっとる。おまけにもう、御次さまが決まっとるからな。うらやましい限りだぞ」  グレーを帯びて深い紫色に染まった海を、煌々と照り映える落日の光が綺羅と彩る。おれは目を細めてその光景に見入り「もうおれは、おまえだけでいいんだ、香織。おまえがおれだけでよかったみたいに」  オレンジの光を閉じ込めたとび色の瞳が微苦笑をふくむ。おれはちいさくわらって「外れとらんだろ?」  きゃしゃな肩をすくめて、香織はバルボタージュのグラスをとる。フルートグラスにふれる、淡い赤いくちびる。かすかに動く白いのど。なにもかわっていない。  「おれはずいぶん年を喰ったが、おまえはあの日からずっと、きれいなまんまだな」  ふりかえる顔は、ほんとうにあの日とおんなじだった。「はじめて会った日だ。覚えとるだろ?」  ヤシの葉をゆらして通りすぎていく風に、亜麻色の長い細い髪がたなびく。つややかに波打って陽をはじく。それをおさえる、朱に染まった白いちいさな手。そうしながら長いまつげを伏せて、香織はようやく口をひらいた。
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