冬の蝶々

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 「香織」叱咤のようにふってきた声に、わたしは思いきり不満をあらわにする。「なぁに?お父さま。そんな怖い声、やめて」すると父はとつぜんわたしの肩をつかんで「香織。そんなに急いで大人にならなくっていいんだよ。おまえはいつまでも、わたしの娘でいてくれていいんだ」  今度のどの奥からこみあげてきたのは、耐えがたい胃液の酸味。わたしは父の手をふりほどき「わたし、明日またここに来る約束をしたの、成生さまと」と切り口上に告げていた。  「それは、無理に約束させられたんじゃないのかい?」  「ちがうわ。わたしから決めたの」  鬱蒼とした森に囲まれたこの広大な館、一族のあいだでは、来訪する際に『登城』と呼びならわされているこの眞龍寺の御殿に、黄昏がゆっくりとしみ込んでくる。鴉がするどく一声啼いて、黒いシミのような鳥の群れは、絢爛綺羅の猩々緋の残照を横切って、ねぐらへと戻っていく。 彼らの羽ばたきを聞きながら、わたしはしぜんに笑みが浮かんでくるのをどうしてもとめられない。「そうよ。わたし、またここに来たかったの。だってまだ机に、読みかけの本が置きっぱなしなんだもの。だからわたし、またここに来るのよ」
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