冬の蝶々

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手にとった本は重くて、ちゃんと手入れのされている、好ましい古い紙の匂いがする。「あなた、とってもだいじにされてるのね」『中島敦全集 一 山月記・李陵・その他の短編』と、いまどき絶対見られない書体の活字がうがたれている表紙をなでると、会いたくて仕方ないひとにやっと会えたみたいにドキドキした。 南側の五つの窓からすこし離れたところに、日光を背にするようにして、裁判官がとんとんと木づちを叩きそうな長い机が置かれている。わたしは『中島敦全集 一』を抱きかかえて、布張りの肘掛椅子に腰をおろし、机に陣取る。目次から、もうわくわくする。いちばん最初が山月記。若くして世を去った作家の『ツール・ド・フォース』。最初の一文からわたしはもう、奥深い山中で迷っている旅人になる。月の光を浴びながら、さらさらいう竹の葉の音を聞いている。 お酒も麻薬も知らないし、結末は知ってるけれど、読むたびわたしはしたたかに酔って、山水画の中国にトリップする。そうして、月明かりの下消えていく、古い友人の金と黒との縞柄の尾をたしかに観る。 「はぁ」うっとりと顔をあげて、直後わたしは愕然とした。
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