冬の蝶々

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すると男はとつぜん、もう空になったお皿から離れるみたいにしてすっと後ろにひき「なんだ、おまえが寺庵下の娘か」と吐きすてるように言った。背筋がぞうっと冷える、この世の涯のぎりぎりの際を歩いているひとみたいな昏い眼をして。 「そろそろ親父の用件も終わるだろ。行けよ」 「はぁ?」わたしはとうとう頭のてっぺんから声を出した。「あなたなに言ってるのよ。どこにいつどう行くかは、わたしが決めるわ」 「じゃ、まだここにいるのか」 問われて、即座に首肯すると、男は深々と顔をのぞき込んできて「おれもいっしょにいていいか?」と重ねて問いを投げてきた。さっきの、この世の涯を歩いているひとみたいな目のままで。月明かりだけが供連れみたいな目で。さらさら、竹の葉の音が聞こえてきそうな目で。 「いいわよ」 しぜんに足が動いて、わたしは部屋の片隅に置かれたふたり掛けのソファに座っていた。「わたしでよかったら、いっしょにいてあげる。くれば?」男は水の上を歩くみたいな歩容でやってきて傍らに腰をおろし、あらためてわたしの顔をまじまじとのぞき込んできた。 「なに?」 「いや。おまえ、変わってるな」
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