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僕は、両親が高齢となってからようやく産まれた子供だった。
母親は、僕が三歳の時に亡くなってしまった。
高齢での出産は、母体に大きな負担を掛けてしまったのかもしれない。
母親のことは、もう気配程度にしか覚えてはいない。
母の懐に抱かれたぬくもり、そして掛けてくれたであろう暖かな言葉。
それらは分厚い霧の彼方に見え隠れする山の頂のようなもので、その霧の中に分け入って山の頂を目指そうとしても、いつの間にか方位も、距離も、そして今の自分の位置すらも分からなくなってしまうような曖昧なものでしかない。
母親の顔もよく覚えてはいない。
もちろん、写真などで母親の顔を見たことはある。
けれども、僕の心の中に仄かに残る、暖かさの余韻を伴った母親の残影、それはどうしても写真の中の母親とは結び付かないのだ。
幼くして母親を喪った僕は、日常生活の殆どを保育園などに預けられて過ごしていた。
父親も、そして亡くなった母親も、その両親をとうに喪っていたし、幼い僕を預けることのできる親族なども居なかったようだ。
父親は、その職場ではそれなりの地位にあったようで、母の死を契機にその働き方を変えるといったことは出来ず、そして、そうする気も無かったようだった。
勤めを終えた父親が保育園に預けられた僕を迎えに来るのは、他の子供達がとっくに帰ってしまった遅い時間となることがほとんどだった。
取り残された僕のために残業を強いられた職員たちは、決してそれを面には出さないまでも、苛立たしい雰囲気をじんわりと漂わせていた。
僕は、そんな職員たちの顔色を伺いながら、息を潜めるようにして部屋の片隅に蹲り、父親が迎えに来る時を只管に待ち続けていた。
日中には他の子供達と奪い合うようにして遊んでいた様々な玩具。
僕だけが残された部屋の中では、それらはとても味気なく、そして得体の知れない余所余所しさを漂わせているように思えてしまった。
昼間の煌めきなど消え失せてしまった玩具で遊ぶ気にもなれなかったし、そして、苛立たしい雰囲気を漂わせる職員の手前、楽しく遊ぶことなどは憚られてしまった。
ただただ申し訳無さそうにして一人で部屋の隅にて蹲り、父親の迎えを只管に待っているだけだった。
遅くなってからようやく迎えに来てくれた父親が、待ち焦がれていた僕の手を取ってくれることなど殆ど無かった。
背を屈めて足早に歩く父親に置いて行かれないように、子供の脚で必死になって追い掛けたものだった。
僕に向けられていたその背中、それは頑なで、そして依怙地だった。
父親は、決して冷たい人間という訳ではなかったのだと思う。
もう若くないにも関わらず、仕事をしながら男手一つで子供を育てるということには計り知れぬ苦労もまたあったのだろう。
体力も、そして気力も衰えつつあるその身では、幼子の甘えを真正面から受け止めていくことなど難しかったのだろうとも思う。
そして、僕を産んだ所為で、愛する妻が命を落としてしまったという蟠りを心の何処かに抱えてもいたのだろう。
それらが僕に対する冷淡とも言える態度の理由だったのだろうと思う。
それでも、小学生の中頃までは、それなりに関わりはあったのだと今となっては思う。
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