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元々が決して暖かなものとは言えなかった僕と父親との関係性。
その関係性が一挙に冷え込んでしまったのは、小学六年生の頃だったんだろうと思う。
僕が通っていた小学校では学期に一度、授業参観が行われていた。
クラスメイトの多くは、その母親達が来校していた。
クラスメイト達は、母親達に授業の風景を見られることに対し、表向きは悪態を吐きながらも、どこか嬉しげな雰囲気もまた漂わせていた。
そして、授業が終わると、クラスメイト達はその母親達と連れ立って一緒に帰っていた。
家に帰る途中で一緒に買い物をしよう、あるいはファストフードに寄って行こう、などといった楽しげな会話を交わしながら。
クラスメイト達がその家族との関わりの中で漂わせる賑やかさや楽しさ、そして暖かさ。
それらは茨の棘のように、僕が抱く冷え冷えとした寂しさを苛むようだった。
そんなクラスメイト達の姿が目に入らぬように俯いて独りで帰る僕は、自分の身が呪わしくて仕方なかった。
俯いて、自分のつま先を見詰めつつ歩みを進めながら、僕は心の中にてこう呟いていた。
どうして、僕には母親がいないんだろう?
どうして、父親は授業参観に来てくれないんだろう?
どうして、僕には自分を優しく暖かく包み込んでくれるような家庭が無いんだろう?と。
小学六年生の頃。
二学期の授業参観を控えたある夜のことだった。
夕食の席には、スーパーで買ったと思しき惣菜が並んでいた。
それは、いつもの光景だった。
スーパーで買って来た唐揚げやコロッケなどといった惣菜を皿へと移し替えて電子レンジで温める。
父親が出勤前にタイマーをセットしておいて炊き上がったご飯を、それぞれが茶碗へとよそう。
それらに加えてインスタントの味噌汁かスープなどを用意する。
それが我が家の夕食だった。
手作りの料理が食卓を彩ることなどは殆どなかった。
そして、食卓に笑い声が飛び交うことなど全くなかった。
重苦しい沈黙の中、僕と父親はご飯やおかずを黙々と咀嚼する。
時折、インスタントの味噌汁をズズッと啜る音が不釣り合いに響き渡る。
そして、父親は思い出したかのように、決まり切った質問をポツリポツリと投げ掛ける。
「勉強はうまくいっているか?」とか、
「学校では友達と遊んでいるか?」とか。
僕は、投げ掛けられた質問に対し、決まり切った答えを淡々と返していた。
「うん」とか、「大丈夫だよ。」などといった、短く、そして感情の揺らぎを感じさせない答えを。
それが、父親と僕との間で、いつの間にか出来上がっていた食事時の『ルール』だった。
父親は僕の内面に興味などは無く、僕が何の問題も起こさず大人しく過ごしてくれさえすれば、それで良かったのだろう。
そしてまた、「親」の役割を果たしているといった言い訳も彼の中にて必要としていたのだろう。
それが決まり切った質問を機械的に口にすることの理由だったのだろうと思う。
そんな儀式のようなやり取りの合間に、僕の活き活きとした感情や願望などが姿を現わすことなど許されていなかった。
ただ、授業参観を前にしたその日。
僕はその『ルール』を破り、父親にこう切り出した。
「お父さん、あのさ…。」
何とか会話を切り出そうとはしてみたはものの、呼び掛けの台詞を口にしただけで、それ以上、言葉を続けることは出来なかった。
父親は、言葉が喉につかえたような僕に対し、話の続きを促す素振りなどを見せることも無く、まるで何事も無かったかのように淡々と咀嚼を続けていた。
その態度は、僕の呼び掛けに、いや、僕の生々しい気持ちに一切興味を持つまいとする父親の姿勢を如実に表わしているかのように思えてしまった。
そんな父親の頑なで冷淡な態度を目の当たりにし、一瞬ではあるけれども、僕は怒りへと駆られてしまった。
僕は気色ばむ。
そして、父親へと言葉を投げ掛ける。
「お父さん、お願いだからさ。
お願いだから、次の授業参観を見に来てよ。
家族が誰も見に来てないのって、
ウチだけなんだよ。
他の同級生の家って、
みんなお母さんが見に来てくれているんだ。
僕、ほかの同級生の子達が、
もう羨ましくて羨ましくて・・・。」
僕のその言葉を耳にした父親は咀嚼を止め、そして、左手に持っていた茶碗を静かにテーブルの上に置いた。
父親のその表情から、感情の揺らぎは一切感じられなかった。
むしろ、普段から鎧のように纏(まと)っている頑なさの気配が、より一層その硬さを増してしまったかのように思われた。
僕は、まずいことをしてしまったかもしれないと、忸怩たる思いに囚われる。
嵐を前にした黒雲のように、重苦しい後悔の念が僕の心を満たし始める。
僕はそれ以上、言葉を発することは出来なかった。
只、項垂れて、父親の次の言葉を待つことしか出来なかった。
父親の声が響く。
その声色に、一切の感情の動きは感じられなかった。
只管に無感情で只管に冷淡、そのような声色だった。
その声色は無機質に、そして冷酷に僕へと問い掛けた。
「そのお母さんが居なくなってしまったのは、
一体、何処の誰の所為だ?」
僕は、何も答えることは出来なかった。
しばらくの沈黙の後、父親は言葉を発さぬまま席を立ち、そして自分の部屋へと入っていった。
僕は項垂れて、父親が戻ってくるのを待ち続けた。
テーブルの上に並べられた味気の無い夕食が、次第次第に冷え切って行くのを唯々見つめながら。
結局、父親が彼の部屋から出てくることは無かった。
日付が変わった頃、僕はのろのろと椅子から立ち上がった。
冷え切った夕食を棄て、そして食器を洗った。
その晩の父親とのやり取りは、僕の以後の対人関係の基本的な在り方を決定付けてしまったのだと思う。
僕は、自分自身が他人にとって迷惑な存在であると規定するようになった。
僕は、自分が何か生々しい自分の願望を口にしたなら、それが他人の機嫌を大きく損ねてしまうかもしれないとの怖れを抱くようになってしまった。
自分自身の存在は、他者にとって好ましくないものである、僕はそのように自覚するようになった。
そして、僕がその認識を変えることは、結局のところ叶わなかった。
そう、あの『彼女』に逢うまでは。
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