序章・現代

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序章・現代

ひやりとした感覚が(てのひら)に伝わってきたのはほんの一瞬だった。 その刹那の冷たさの後、僕の右手は一切の抵抗も感じぬままに鏡の向こう側へズブリと吸い込まれて行った。 その声が囁く通りに鏡へと右の(てのひら)を差し伸べた時、僕は未だ半信半疑だった。 期待に胸を高鳴らせつつある一方で、そんな事など起きる訳もないと冷たく俯瞰(ふかん)している自分が居たとでも言うべきだろうか。 だけど、もしも、もしかしたら。 それが現実に起きるならば、何が何でもそれに縋り付きたい、そう願っていた。 それは実に切実な願いでもあった。 今の僕を取り巻く現実は、余りにも救いが無さ過ぎたから。 漲る期待と醒めた現実感。 僕の胸を満たしていたそんなジレンマは、拍子抜けなまでにあっさりと消え失せた。 一切の抵抗も無いままに、僕の右手は鏡の中へスルリと吸い込まれて行ったのだ。 それは、水面に手を差し入れるのと何も変わりはなかった。 それは、鏡の向こうの『彼女』が、僕に(ささや)いていた通りだった。 現実と(うつろ)との境目が、僕の中にて途端に曖昧なものとなりつつあった。 僕の心は驚きに包まれると同時に、期待と歓喜とで満たされつつもあった。 そして、僕の心の片隅にて息を殺して(うずくま)っていたかのような劣情もまた蘇ったかの如く、急激に頭を(もた)げつつあった。 鏡に差し入れた僕の右手が、その向こう側にて何物かに柔らかく包み込まれる。 それはきっと、夢の中に幾度と無く現れた『彼女』の(てのひら)に違いなかった。 その(てのひら)はふわりと柔らかで、程良く湿り気を含んでいて、心地良くひんやりともしていた。 そして、何故だか瑞々しい薫りまでもが伝わって来るような心持ちだった。 安堵が僕の心を満たし始める一方で、激しい電流のような興奮が僕の脳髄を掻き乱し、そして四肢へと駆け抜けて行った。 鏡の向こうのその(てのひら)は、僕の手をグイッと引っ張る。 僕の身体は鏡の向こう側へ滑らかに吸い込まれて行く。 それがまるで当たり前の、自然の摂理であるかのよう。 気が付くと、僕は鏡の世界の中に佇んでいた。 僕の目の前に立っていたのはメイド姿の女性だった。 女性を言うよりは、むしろ少女と言ったほうが良いのかも知れない。 いや、女性或いは少女のいずれかと言い表すよりも、艶めかしく成熟した女性と、幼さや可愛らしさを残した少女との双方の魅力を、絶妙なバランスで湛えていると形容すべきなのかもしれない。 そのバランスはこの上なく危うげなものに感じられたし、言いようのない不安すら抱かせてしまうようなものですらあった。 肩の付近まで伸ばした銀に輝くその髪の毛はふわりと拡がり、やや丸みを帯びたその顔の輪郭と完璧な調和を見せているようかのだった。 やや切れ長ながらも丸みを帯びた目の中の瞳は、銀色に艶めかしく輝いていた。 長くて密度の濃いその睫毛(まつげ)は、目の輪郭を押しつけがましくない塩梅で際立たせているかのようだった。 透き通るようなその肌は、白磁のようにきめ細やかで透明感すら感じさせるものであり、目を凝らせばその肌の下に流れる薄青い静脈すら透け見えてしまうような心持ちにさせられるものだった。 その一方で、弾むような張りや水蜜桃のような瑞々しさもまた湛えているようだった。 すっきりした鼻筋と均整の取れた程良く高いその鼻梁(びりょう)は、彼女の顔の印象を緩急あるものにしているように思わせた。 濡れたかのような桃色の唇は艶やかであり、艶然とした笑みを湛えているようだった。 その背丈は、女性としてはやや高めなのだろう。 けれども、その体付きが見事なまでの緩急を見せている分、この上無い程にその釣り合いが取れているように思えた。 その胸の張りは、きっと大きい部類には入るのだろう。だが、大き過ぎるという訳ではなく、むしろ控えめさ、そして気品すら感じさせるものだった。 細く締まったウエストと張りのある臀部とが為す緩やかな曲線はこの上無く滑らかで、そして完璧と言えるほどの緩急を醸していた。 短く黒いスカートと膝上の丈まである白くて艶のあるタイツの狭間に見える白い太股は、瑞々しさと弾むような弾力を湛えているようであり、薫らんばかりの色気を辺り一面に発散させているようだった。 白く艶のあるタイツに膝上まで包まれた彼女の脚、それは程良い肉感を湛えているものであり、細くもなく、かといって太くもない、まさに絶妙な塩梅のものだった。 膝の形にふくらはぎの肉附き、そして細く締まった足首。彼女の脚を包み込んでいる白く艶めいたタイツは、それらの(かたち)をより一層際立たせているかのようであり、生の肌を覆い隠している分だけ、その官能の度合いを色濃くしているように感じられた。 その彼女は、肘の上まである丈の白い手袋で覆われた左手で僕の右手を握り締めていた。 彼女は僕の右手を握ったまま、その左手を下へと降ろす。 自然に僕と彼女との距離は縮まった。 それは、互いの息の掛からんばかりの距離だった。 僕は思わず息を呑む。 そんな僕の右の手を、彼女はその両手でやんわりと包み込む。 彼女はその目を細め、その首を右へと小さく傾げた。 その様は何とも愛らしく、そして妖しいまでに艶めいていた。 彼女は上目遣いで僕の顔を見上げ、小さく囁いた。 「来てくれたのね。凄く、嬉しいな。」 甘えを含んだかのような(なま)めかしいその声は、僕がここ数日来、鏡越しに聞いてきた声そのものだった。 けれども、これまでと違うのは、今まで想像することしか出来なかったその声の主の顔を見ることが出来たことであり、鏡越しなどではなく直接に、その声を聞くことが出来たことだった。その艶めかしくも愛らしい唇の蠢きとともに。 それは、まさにこの数日来、僕が強烈に焦がれ願い続けてきたことだった。 彼女のその姿は、僕が膨らませ続けて来た様々な想像を一挙に色褪せさせる程、圧倒的なまでに艶めかしくて美しく、そして可憐でもあった。 直に耳にする彼女のその声は、僕の脳髄を蕩けさせるかのようだった。 (なま)めかしいその声の響きは、僕の中に辛うじて残っていた理性や判断力をジワジワと麻痺させていくように思われた。 この女の言うことならば、もう、全てを聞き入れよう。 そんな僕の内心を知ってか知らずか、彼女は僕の顔を見詰め、そして、妖しげに微笑んだ。 彼女の存在は、最早、僕の心を支える全てになりつつあった。
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