プレゼント

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「やっぱ、わかんないなぁ」  八畳一間のフローリングを前に、ぽつりと呟く。  生活感剥き出しのそこは家主の性格らしくそこそこに整理されていて、ふわりと彼の匂いがした。鍵がちりんと金属音を立てる。悲しいのは私の方だ、と鍵に対して言葉が浮かんだ。  彼に合鍵をもらったのは先月の中頃のことだった。いつものように連絡をもらって家に上げてもらって、ココアを飲みながら雑談をしていた最中だったと思う。不意に立ち上がって、そうだと呟いて、あたりまえのように鍵を差し出された。 『これ……』 『合鍵だよ、この家の。好きな時に来てくれていいからね』  甘やかすような台詞が、言い慣れたみたいにさらりと降ってきて、私は流されるままに鍵を受け取った。内心の困惑を言葉にはできなかった。世の恋人たちは合鍵を受け取ったらどうしたらいいのかもよくわからないで、でも目の前の相手に訊くなんてできるはずもなかった。 『……ありがとうございます』  体温より冷たく硬いそれは、以来、小銭を敷いた財布の中に住み着いている。ジュースを買うたびに目が合っては、「今日はAくんのとこに行かないの?」と邪気のない視線が投げかけられるような気がして、居心地が悪くて、結局は彼の家に行ってしまうのだ。鍵をもらってから、それこそ毎日。    はあ、とこぼしたため息がコーヒーの底に沈んでいく。彼に鍵を渡した意味を訊けたらいいだなんて分かりきっているのに、まだ何も訊けていない自分の意気地のなさが情けない。鍵をくれた時、彼は何を思っていたのだろう。私に何を求めたのだろう。鍵を渡された時の恋人としての作法は、どうやったら学べるのだろう。もしかして私も鍵を渡すべきなのだろうか。  ぐるぐると迷走して、混乱して、結論の出ない不快感をコーヒーで誤魔化した。思えばこの一ヶ月で、ソファーのやわらかさにもかなり慣れた気がする。初めは恐る恐る腰を下ろしていたのに、今では飛び込むこともできるほど寛げるようになった。  その時、ふと頭の奥に予感のようなものが生じた。もしかして、と嫌な方向に思考が傾きかけた時、扉の開く音で我に帰った。 「ただいま、今日も来てたんだね」 「はい、おかえりなさい」  スーパーの袋を下げた彼はすぐにキッチンに入って行って、袋の中身を冷蔵庫にしまう。私は彼にそっと近寄って、置きっぱなしにされた荷物とマフラーをせめて適当なところに移動させておいた。 「Aさんもコーヒー飲みます?」 「んーココアでもいい?」 「もちろんです」  マグカップに粉末状ココアスプーンで掬って入れて、少しの牛乳で溶かしたら、たっぷりの牛乳でコップを満たす。あとは文明の利器、電子レンジにおまかせだ。彼の身体を胃袋からあっためてやれと心の中で命令を告げて、マグカップをレンジに突っ込んだ。ありがとね、と気遣う声がかけられる。 「いえいえ、好きでやってることですから」 「それでも嬉しいよ」  マグカップが二個、テーブルの上で隣り合っている。ソファーに並んで座った私たちは、テレビをつけるでもスマホを見るでもなく、小さな膝掛けを分けあっていた。どこからかやってきたまあるい蜜柑の皮を剥きながら、彼は仕事のことや友人のこと、楽しかったことについてほろほろ話した。私はコーヒー片手に話を聞きながら、彼を内側から温める任務を無事果たしたココアを心の中で褒め称えた。 「……それで上司にも久し振りに褒められたし、今日はいい感じだったなぁ」 「最近のAさんは調子が良さそうですね」  軽い相槌を打つと、彼はみかんから視線を上げて、じっと私を見つめた。どことなく嬉しそうな視線に、私は少し不思議に思った。 「どうかしました?」 「ンフフ、Bさんそういうところあるよね」  私を置いてけぼりにして、彼はクスクスと笑う。そして笑いながら、面白がった口調でこう言い放った。 「いやね、最近恋人がよくうちに来てくれるから、とってもストレスフリーなんですよ、僕」  これは、予想外。赤くなりそうな頬をさっと隠したところ、再び彼がクスクスと笑う。ますます恥ずかしい。せめてもの抵抗に、膝掛けをちょっと多めに引っ張っておいた。  笑い声はやがて落ち着いて、マグカップを持ち上げる音がコトリと鳴る。彼はみかんを食べ終えたらしかった。 「悪い意味はないんだけどさ」  不意に告げられた言葉に、ほとんど反射のように振り返った。彼は半分ほどに減ったココアの熱で手を温め、カップの中を見下ろしていた。 「無理に毎日来てくれなくていいんだよ。君も忙しいし。合鍵を持っているからって、毎日来ないといけないことはないんだからね」 「……バレてました?」 「んーいや、あんまりわかってはないんだけど」  言葉を選ぶようにゆっくりと言葉が発せられる。 「君はすごく不器用なのは知ってるかな。でも、どうして毎日うちに来てくれるのかはわからない」  迷惑とかそういうのじゃないよ、と付け加えられたフォローに少し申し訳なくなる。私が訊けずにいたからと、彼に気を遣わせてしまったらしい。  マグカップを両手で包み込んで、膝の上に置く。少しだけ背筋が伸びる。 「ちょっと、質問いいですか?」 「このタイミングで?別にいいけど」 「合鍵をくれたの、なんでですか?」  ようやく言えた言葉が思いの外軽かった。彼は少し悩むようなそぶりをして、 「もしかして最近なんか考えてたのって、それ?」 と尋ねた。 「はい」 「あーそういうことだったのね。そりゃそうだよね、君こういうの特に不器用だし」  一口分のココアが飲み込まれる、こくりという音がやけにはっきり聞こえる。 「僕がはじめての恋人だって聞いてたのに、困惑させちゃったかな。ごめん」 「いえ、そういうのじゃ」  ほんとにそういうのじゃなかった。ただ単に私が、経験がなくて、意気地もなかっただけだ。  へにょりと下がった眉に抱く罪悪感。困っているのは自分のくせに、私を気遣う優しいところ。 「……やっぱり、明日は来ないことにします。実はやることちょっと溜まってるので」 「そう?」 「はい」 「なんか、うん……まあいいや。けど気が向いたらまた来てよ」 「はい」 「待ってるからね」  ひらひらと軽く振られた手を見ても、私の返事は単調でつまらない。 「はい」 「うん」  ポスンとソファーにもたれかかって、彼は首をこちらに傾けた。話は終わりとばかりに沈黙が続く。私もマグカップを置いて、彼と同じようにソファーにもたれかかった。彼の髪が少し首に触ってちくちくするのに、痛くもなければ不快でもない。そういえば前はそのことが不思議だった。けど、彼がおかしくなんてないと言うから、このちくちくがどことなく幸福であることを、当たり前に思えるようになった。  なんだか変なことを考えているせいか、勝手に頬が緩んでしまう。うっかり口も滑りそうだ。 「ねえ先輩」 「なに」  ココアみたいに優しく甘い声がした。今なら何を言っても許されるような気がした。 「やっぱり、来ないって言ったの無しにしてもいいですか?」 「明日?」  ちょっとした驚きを含んだ声が訊き返すのに、私は躊躇わず肯いた。 「はい」 「急な心境の変化だね。もちろんいいよ。てか、僕にばっかり得で、いいのか不思議なくらいだよ」  その言葉がどれくらい本心なのか、私にはわからない。彼がどれくらい嘘をつく人なのか、未だ見極めることはできていない。だからこそ、言葉のままに信じてみたい、だなんて。 「私もここに来れて、お得ですよ」  素直な言葉を口にすると、彼はそっか、と小さくこぼした。喜びが滲み出たような声で嬉しかった。 「そういえば」  とまた彼が言葉を紡ぐ。私は少しばかり冷めたコーヒーを再びレンジで温めようかと考えながら、「なんですか」と言った。 「合鍵をあげた理由だけど」  言われて思い出した。そういえば質問の答えを聞いていなかった。彼は私の注意が彼の方へ向いたのを確認して、ゆったりと話し出す。 「この間、Bさんが言ってたでしょ?僕の家は僕らしく整理されていて、僕の匂いがするって。それ聞いて、家って僕自身というか、僕の心みたいなものなのかなと思って、もっとBさんに家に来て欲しくなったんだよね」  ぎょっとして彼を凝視する。とんでもないことを言われているような感じがして、でも気のせいかもしれないと別の心が囁いて。きっと自惚れ。きっと私みたいなお子様に優しい言葉をくれているだけ。でも彼は今日、まだなんの嘘も吐いていない。  揺れ動く私の気持ちなど知らずに、彼はバッサリと言葉にした。 「つまりは、君に僕の心を明け渡したかったんだ」 「……とんでもないこと、言いますね」 「フフフ、たまには悪くないでしょ?」  悪戯な笑みに簡単に撃たれてしまった己の心臓を庇いながら、私は意趣返しのように言葉を捻り出した。 「ちょうど私も、先輩の心が欲しかったんです」 「……それずるいよぉ」  そう言って彼がぐりぐりと肩に頭を擦り付けるので、私はへにゃりと笑った。
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