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ひかり差す場所
「『Kneel』」
唐突に背後から飛んできた悪意ある"命令"に、俺は息を詰まらせた。
「あっれ、おかしいな。あいつSubなんだろ? 全然コマンド効かねえじゃん」
なにが、なにが。おかしいのはあんたの頭だろう、馬鹿じゃないのか。
通りがかりの、名前さえ知らない奴らだ。その下卑た表情を見るに、きっとこの大学内で今噂になっている俺を見かけ悪意でも湧いたんだろう。
あぁ、嫌だ。
震える足を叱り飛ばし、俺は表情を乱さないようにそっと顔だけ後ろへ向ける。目を合わせたら今度こそ崩れ落ちてしまうから、決して顔だけは見ないように。
痛む胸に、息を深く吸い込んだ。
「……よっぽど暇なんだな、あんたら」
低く声を絞り出し煽ってやれば、男のこめかみがひくつく。
「ッこの、」
次の言葉を口にする暇さえ、与えない。
「事実だろう? 嘘か本当かもわからない噂に踊らされて、面白半分で良く知りもしない相手に自分の欲を押し付けたプレイを強要しようとするなよ。相手いないのか? 気の毒に」
こんなことになった原因はわかっている。
数日前から、この大学内で『俺がDomとプレイしているところを見た』という噂が流れ始めたのだ。ここから少し離れたところにある"Dom・Sub同伴専用カフェ"でよく似た人物を見かけた、どうやらパートナーのDomとプレイを行っているSubのようだった──と。
ダイナミクスの傾きがそれほど大きくない人間が人口のほとんどを占める中、Sub性を持つ人間はとても少ない。さらに本能的にも被支配側であるため、何かと弱者になってしまうことが多いのだ。
「言わせておけば! っはは、ちょっと遊んでやるだけのつもりだったけど、気が変わった。おい、『Come』。可愛がってやる」
また、コマンドだ。
しかも今度は、そこに強い怒気を孕んだGlareが乗せられている。Glareは本来、自らのSubを躾ける時や守る時、敵対するDom等を威圧する時に使うものだ。こうも乱用して良いものでは決してない。
「ん? Dom様の命令が聞けないのか? 『Come』って言ってるんだけどな。これくらい簡単だろ。ったく、コマンドも聞けねえ使えないSubが。……ああ、お前はSubじゃないんだったか? まあどっちでも良いか、DomでもGlareで捩じ伏せるだけだ」
はん、と軽く男が笑ったかと思えば、次の瞬間、ずしんと全身に重たいものがのしかかる感覚が全身を襲った。目の前の男の声だけがいやに気味悪く反響して、息をすることさえ禁じられたみたいに空気が喉を通らない。
それでも弱みを見せないよう軽く嘲笑ってやろうと口を開くと、
「……っ、ふざけ」
「『Sh』!」
すぐさま次のコマンドが飛んできて、言葉を封じられてしまう。
あぁ、こんなやつのコマンドなんか聞きたくないのに。すぐにでも耳を塞いでしまいたいのに、痛いほどに重くのしかかるGlareが、身じろぎひとつ取らせてくれない。
コマンドというのは、同意のもと心を許した相手から貰うと心が満たされるけれど、そうでない相手から無理やり食らうと心身にかかる負荷がとてつもなく大きいのだ。
俺が『Come』というコマンドに従わないことに痺れを切らしたのか、男が大股でこちらへ近づいてくる。
そして荒々しく俺の髪を鷲掴み、耳元へ口を寄せ落とし込むように、言った。
「『Bad Boy、お前は悪い子だ。あーあ、お前をパートナーに選ぶ奴なんざ一生現れないな。こんなに物分かりの悪いSubなんざ、こっちから願い下げだよ』」
あのあとどう逃げたんだったか、記憶にない。
けれど気付いたら空き教室にいて、身体の状態から辛うじて"どうやら直接手を挙げられることもなくここまで来られたのだ"と分かった。
ああ、こわかった。
あのまま息がとまって、死んでしまうかと。
でも、俺は、"わるいこ"なんだっけ?
だってさっき、そうやって言われた。
言うことをちゃんと聞けなかったから。俺が生意気に逆らったりして、可愛くないことをしたから。なら仕置きされるのも悪い子だと言われるのも当然、……あれ、でも、俺はいやで──、
「っ、神田、」
何かあったらいつでも呼んで、と言ってくれた人がいた。なによりも一番に駆けつけるから、ひとりで苦しまないでと。
──……俺の、大切なパートナー。
震える手で連絡先をスクロールし、よく知った名前をタップする。これで、あのひとが来てくれる。だきしめて、くれる。
少しの間をおいてコールし始めたスマホにほっと安堵したのも束の間、遠くからはしゃぐような叫び声が聞こえてきた。
「っひ、」
なにも怖くないとわかっているのに、身体が竦む。あの下卑た笑いがすぐそばで聞こえる気がして、痛いGlareが全身を縛り付けているようで、恐ろしくて。
『Bad Boy。水瀬は悪い子だね』。
ふいに、さっき浴びせられた言葉が、神田の声で頭の中に再生された。俺を見て、嫌そうに目を細める神田が嫌でも脳内を巡ってしまう。
少しだったけれど、抗えなくて、さっきの男のコマンドを聞いてしまった。
俺は神田のSubなのに、神田以外の言葉なんて聞きたくはなかったのに、頭がぐらぐらして気付けばあいつの言葉が頭の中で反響していた。
良い子じゃないSubは、嫌われてしまう。捨てられてしまう。そんなのは嫌だ。
……ならやっぱり、ここには神田のことは呼べない。俺ひとりでどうにかしないと、あいつに迷惑をかけてしまうから。
けれど無情にも、通話はつながってしまう。
「〈あれ、水瀬? どうしたの、何かあった?〉」
こんな時間に電話をかけることは普段ほぼないから、電話の向こう側から聞こえる神田の声は異常事態を察してか不安げだ。
「〈水瀬? 大丈夫? もしもし、聞こえてる? とりあえずすぐ行くから、場所教えて〉」
何も言わない俺にことの重大さを知ったのか、神田が音を立てて動き出すのが聞こえる。
いやいい、大丈夫だと言ってこのまま電話を切ってしまいたい。けれど、声を発せばきっと俺の状況はすぐバレてしまうだろう。
とりあえず短い言葉で平気だと告げ、すぐに電話を切ろうと意を決して口を開いた。瞬間、鋭い痛みが喉を走る。
なんで。
話そうとすると、声が出ない。
「〈水瀬、平気? 今行くからね〉」
電話の向こうからは、焦っているんだろうに俺を不安がらせまいとしてしきりに穏やかな声が聞こえてくる。
けれど俺は、そのどれにも答えてやることができない。喉の奥がひりついて、声を出そうとすればするほどひどい頭痛とともに吐き気が込み上げてくる。
ちゃんと回らない頭でなんとか思考を巡らせて、やっと思い当たった。きっと、先程のDomから食らった『Shush』というコマンドを、本能が無意識のうちに聞き続けているのだ。
どう頑張っても呼吸音しか出てこない自分の喉を強く手で押さえて、ぐ、と唸った。
あぁ、つくづく、俺は良い子になれない。
電話口、音にならない声で『ごめ、』と空気を絞り出すと、同時に両目から意図せず涙が溢れ出した。
あれ、なんで、なに、これ。
「──……水瀬!!」
それは、よく知った愛おしい声。
ガラガラッと勢いよく開いた扉のその先に、肩で息をする神田が立っていた。
「……っあ、」
そのブラウンの瞳がこちらを向くだけで、胸の内側があたたかく緩んでいくのが分かる。
「っか、んだ、」
縋るように伸ばした手を、神田は駆け寄ってきて柔らかく取ってくれる。
「うん、俺だよ。水瀬、ごめん、遅くなった」
痛いくらいに強く俺の手を握りしめる神田も、よく見ると震えていた。
心配を、かけてしまった。
「何があったのか、教えてくれる?」
俺の顔を覗き込んで、神田が穏やかに問う。
ぎゅっと神田の手を握り返して息を吸い込むも、やはり出てくるのは呼吸音だけだ。
察したように、神田が俺の喉に触れた。
「水瀬、『Speak』。」
神田の声が優しく鼓膜を揺らし、その瞬間気道を空気が通り始める。
「っは、はぁ、はぁ……ッ!」
神田が背中をさすってくれるその手のひらの温度に、胸が安堵感で満たされていく。
「ごめん、俺、わるいこだから逃げられなくて、嫌なのに神田じゃないやつのコマンド振り切れなくて、ごめん、ごめんなさい、神田、ごめ」
堰を切って溢れ出す謝罪の言葉は、しかし神田の胸板によって塞がれてしまう。
「水瀬、『Good Boy』。怖かったでしょう? 頑張ったね。ちゃんと俺のこと呼べて、偉かったよ」
柔らかく頭を撫でる手のひらの感触が心地よくて、あたたかくて、泣きたくなってしまう。
あぁ、確かに神田だ。
世界一大好きで、なによりも大切で、たったひとりの俺のDom。
「今日はもう、帰ろうか。家でゆっくりしよう。水瀬に手を出したDomは、後でちゃんと報告して処理しておくから」
両腕の中にきつく俺を閉じ込めた神田が、遠くを睨みつけながら低い声で言う。
「……神田、」
怒りから溢れ出したGlareが人のいない教室内に満ち満ちていくのを感じて、俺はついと神田の服の裾を引いた。
さっきは気持ち悪くて怖いだけだったGlareも、神田のものなら心地よくて愛おしい。
けれど、これは自らのSubを守ろうとする本能から発せられる『ディフェンス』にあたるGlare。つまり、俺以外のあらゆる人間には害のある攻撃となってしまうモノだ。
「ん、ごめん。ありがと、水瀬。」
俺の頭を撫でながら、神田が辛そうに微笑む。
「水瀬、『Good Boy』。俺の大切なSub。悪い子なんかじゃないよ。俺のところに戻ってきてくれて、ありがとう」
慈雨のように降り注ぐ神田の言葉が、冷え切っていた全身を暖めていく。思わず緩む表情を抑える力は、もう残っていなかった。
「ん、」
神田に褒めてもらえるのは、なんだかふわふわして気持ちよくて、好きだ。
体重だって決して軽くはない自分をすっと抱き上げた神田の首に、力の入らない腕を回して懸命にしがみついた。すぐ近くで小さく笑った気配がして、俺もなんだか安心してしまう。
「水瀬、寝てていいよ。水瀬が起きるまで、ちゃんとそばにいるから」
「ん、」
寝てていいよ、と言われた瞬間、疲労と共にどっと眠気が押し寄せてきた。
「約束、だからな」
「もちろん。起きたら今日は水瀬のこと、とびきり大事にさせてね」
うん、と言えたかどうか、俺はそこから深い眠りに落ちていった。
6歳の頃、訳も分からず連れ込まれた路地裏で襲われコマンドによる暴行を受けてから、俺は長い間Domに強い拒絶反応を示し続けていた。
そうして自分がSubだと周囲へ明かさないままこれまで人を遠ざけて過ごしていたが、そこへある日、神田が現れたのだ。
神田だって決して欲求が弱いわけではないし、こんな俺のために本能を抑え続けるのは相当きつかった筈だ。しかし神田は、俺が望まないことは一切しない、許可がなければ触れることもしないと約束を取り付け、それを守りぬいた。
冷たく凍りついていた俺の心に優しく触れ、柔らかく溶かしてくれた神田に、俺も気付けば心を許していたのだった。
神田にはこれまで我慢させてばかりいたから、今度は俺が頑張ってその気持ちに応えたい。
そう思ったから先日、まだ苦手ではあるけれどここから離れた場所ならと政府認可の降りているちゃんとしたカフェを訪れたのだ。
なのに、それを見られていたなんて。
「ごめんね」
神田が、消え入りそうな声で呟くのが聞こえた。
謝るようなことはないと、俺は幸せだからとそう伝えたいのに、睡魔に負けて言葉が出てこない。
仕方がないから、代わりに神田を思い切り引き寄せて強く抱きしめた。首元にぐりぐりと頭を押し付けると、動揺から一瞬よろけた神田が姿勢を持ち直しつつ困ったように眉を下げる。
「……やっぱり、敵わないな。
そうだよね。ここで謝るのは、違うね。」
わかってくれたなら、いい。
「おやすみ。俺の愛しい、水瀬」
鼓膜を震わす大好きな声が、俺をさらに深い眠りへ落としていく。
──俺も、俺も愛してる、と囁いたその声は、果たして彼へ届いただろうか。

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