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「にゃー!」
玄関の扉を開けるなり、可愛らしい猫声を上げて飛び込んできたのは果音ちゃんだった。
「果音ちゃん、猫は音に敏感だから、大きな声を出したらビックリしちゃうよ」
そう言って佑弦さんは、形の良い唇の上に人差し指をあててみせる。
「あ、そっか。ごめーん」
果音ちゃんは可愛らしい声でそう言うと、ピンク色の舌をペロリと出した。
「あー、ここにいた」
佑弦さんの声にソファーの下を覗き込んでみると、隅の方で猫の二つの瞳がキラリと輝いているのが見えた。
当然、「おいで、おいで」と言ってみたところで猫は出てくる様子はない。
「ちょっと待ってて」
佑弦さんはそう言って立ち上がり、ダイニングチェアーの上に置いてあったレジ袋を引き寄せると、何やらゴソゴソやり出した。
そして取り出したのは、ペースト状の猫用おやつのパック。
よくCMで猫が夢中になってペロペロと舐めているアレだ。
「おいで……」
佑弦さんが身を屈めると、長めにとられた前髪がサラリとこぼれて、シルバーのピアスが揺れるツンと尖った色白の耳が露わになる。
Tシャツ越しに見てとれる背中は意外にも筋肉質に引き締まっていて、思わず私はドキリとしてしまった。
辛抱強く佑弦さんがおやつのパックを差し出していると、やがてソファーの下から白黒の小さな顔が覗いた。
警戒気味に輝くまん丸の瞳が、佑弦さんの白い指先に真っ直ぐ向けられていて、墨汁を垂らしたようなブチ模様がある鼻先がヒクヒクと動いている。
果音ちゃんが思わず声を上げそうになってから、慌てて手のひらで口を塞ぐ。
猫は体が全てソファーの下から出てしまうと観念したのか、フローリングの床の上にペタリとお尻をつけると、おやつのパックをペロペロと舐め始めた。
夢中になってパックを押さえるグーの形をした白い前足が可愛らしい。
「ブチ、可愛いー」
今度は驚かせないように、果音ちゃんは声を落としてそう言った。
「この猫、ブチっていうんですか?」
「んーん。ブチ模様が可愛いから」
「まあ、元の飼い主が見つかるまでだから、名前なんて何でもいいだろ」
私が「ブチ」なんて名前をつけたら、「発想が単純だよな」とか馬鹿にしたような事言うに決まってるのに……。
佑弦さんはいつも果音ちゃんに優しい。
血は繋がってない、とはいえ奏一郎さんの姪っ子なのだし、今は自分の雇い主の姪だ、佑弦さんが気を遣わない訳はない。
けれど、私は最初から呼び捨てなのに、果音ちゃんは果音ちゃんだ。
気にするような事ではないのかもしれないけれど、何だかモヤモヤする……。
佑弦さんの手にもおやつの匂いが残っているのか、猫は食べ終わった後も、白い指先をペロペロと舐め始めた。
「うわっ、結構ザラザラしてる」
「えー、いいな、いいな。果音もナデナデしていいかな?」
「優しくね」
「にゃー、可愛いー」
大きな瞳をキラキラさせ、色白の柔らかそうな頬をほんのり染めながら夢中で猫を覗き込む果音ちゃんと、いつもはきゅっと閉じられている薄い唇に無邪気な笑みを浮かべながらサラサラの前髪を揺らす佑弦さん。
そして、痩せてはいるけれど、白黒の毛並みが可愛らしい猫。
ハッキリ言って凄く絵になる……。
それにしても、佑弦さんもこんな優しい笑顔を見せる事があるんだな。
私は何だかぼんやりとしながらそう思った。
私にはいつも馬鹿にした揶揄うような表情ばかりなのに……。
もしかしたら、佑弦さんが彼女を作らないのは、果音ちゃんの事が気になっているからなのかもしれない。
でも、果音ちゃんには智樹君がいるから……。
ぼうっと二人の姿を眺めていると、ふいっと佑弦さんが顔を上げ、その大きな瞳の中心に私の姿を映す。
そして目を細めて……。
ほらまた馬鹿にしたような目つきで……、意地悪な事を言うんでしょ……。
「お前、そろそろ行かなくていいのかよ。今日もシフト入ってんだろ?」
「あー、そうだった!」
私の声にビクリとなったブチを、慌てて佑弦さんが抱きとめる。
「ごめんなさい! 行ってきます!」
抗議の目を向ける二人をよそに、私はバタバタと響子さんの家を後にした。
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