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「響子さんはあの猫を飼うんですか?」
「そういう訳ではないんです。あの猫、1週間前くらいからかしら、この辺りをうろついていたんです」
響子さんが鍋を傾けると、華やかなカツオの香りが辺りにふわりと立ち昇った。
こし器の下には、薄い黄金色の出汁が艶やかに揺れている。
「でも日を追うごとに、だんだん痩せていくから、心配になっていたの。ちょうど昨日、窓を開けっぱなしにしていたら、入り込んできてしまって……。とりあえず保護して、元の飼い主を探そうと思っているんですよ」
「首輪してましたもんね」
「でも、今のところ黒ブチ猫を探している、という情報はないみたいで……」
「そうなんですね……。でも響子さん、随分沢山猫グッズ買い揃えてましたよね」
響子さんのリビングには、キャットフードやトイレ用の砂はもちろん、爪研ぎや大きな猫用のケージまで揃えてあった。
佑弦さんが動物病院にブチを連れて行く為に用意していたのも、真新しいグレーのキャリーバッグだ。
「ウチは猫仕様になっていないから、色々と危ない物もあるのよ。今日は佑弦君と果音に留守を頼んできたらから良いですけど……。これからは一匹で留守番しなければならなくなると思うから……」
「それにしても多過ぎません?」
ネズミ型のおもちゃなんて、響子さんも猫と遊ぶ気満々じゃないかと思う。
「それでも、佑弦君に調べて貰って、必要最小限にしたつもりなんですけれど……」
響子さんは困ったような顔をしてみせた。
やっぱり響子さんもあの大きな家に一人きり、というのは寂しいのかもしれない……。
響子さんは、あまり物を持たずにシンプルな暮らしをしているけれど、ケチって訳じゃない。
お金を使うところには惜しみなく使う。
響子さん宅の2階には、「スタジオ」と呼ばれている部屋があって、ライブで使う銀のお皿なんかの打楽器類やドラムセット等、沢山の楽器が置かれているらしい。
そして奏一郎さんが使っていた機材も全て、いつでも使えるように常に手入れされた状態で置かれているのだ。
「一度見せて貰った事がある」と佑弦さんが黒い瞳をキラキラさせながら言っていたのを思い出す。
果音ちゃんの話によると、響子さんのお父さんは昔小さな会社を経営していて、暮らしぶりはそれなりに良かったらしい。
私の住んでいるアパートと響子さん宅は、そのままお父さんから譲り受けたもので、家賃収入もあるだろうから、響子さん一人生活していくのにはお店なんてやらなくても充分じゃないかと思う。
それでも響子さんは朝から夜遅くまで働いている。
木曜日は定休日だけど、他の店で自身が演奏をしたり、「音の食堂」に出演して貰うアーティストとの打ち合わせなんかしたりしていて、いつ休んでいるんだろう、と私はいつも心配になるのだ。
「それにしても、果音はもうウチに来てたんですね。学校は大丈夫なのかしら」
響子さんがトッピング用の小ネギを刻むザクザクという小気味よい音が、まだお客さんのいない店内に静かに響いていく。
「今日は休講だって言ってましたよ」
「それならばいいですけど……」
そう言えば、佑弦さんと果音ちゃんは、今あの家に二人っきり……。
果音ちゃんには智樹君がいるけれど、雰囲気に流されて……、なんて事もあり得なくもないのではないか。
佑弦さんの、奥深くまで吸い込まれてしまいそうな大きな瞳。
あの深い黒で見つめられたら果音ちゃんだって……。
気がつくと、手にしていたピッチャーから盛大に水が溢れてジャバジャバと音を立てていた。
私は慌てて浄水器のレバーを押し下げた。
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