126人が本棚に入れています
本棚に追加
以前来た時と変わらない落ち着いた雰囲気の店内には、昔流行ったイギリスのロックバンドの曲が流れていた。
ライブの準備の為だろうか、ステージ前のテーブル席は隅に寄せられていて、数名の客は立ったまま談笑している。
それでもその声は皆穏やかで、オレンジがかった柔らかな灯りに照らされるそれらの顔の中には、男のおひとり様を拒むような排他的な色が浮かんでいない。
俺はカウンターの隅で一人、ほっと胸を撫で下ろした。
前回は確か鈴代に勧められて、鶏の洋風スープのような物を注文したような気がする。
でも今日は……。
「すみません、『豚と根菜の味噌スープご飯』をお願いします」
俺が調理場に向かって声をかけると、黒縁メガネをかけた地味ななりの女性がふっと顔を上げた。
こちらを見返してくるレンズの奥の黒い瞳は、穏やかに凪いだ湖面を思わせる。
そして、彼女はその黒に思慮深い輝きをたたえたまま「かしこまりました」とだけ静かに告げると、直ぐ調理に取りかかり始めた。
腰の辺りまでしかない不安定な背もたれに体を預けると、その年季の入った背の高い椅子はギシリと音を立てた。
「お行儀が悪いわ」
白地に青い花のような柄が描かれた急須を傾けながら、鈴代はそう言った。
俺は構わず、白飯をぶち込んだだけの味噌汁をズルズルと啜る。
彼女はそんな俺を横目で見ながら小さなため息をついていた。
でもそれは、ほぼ毎朝のように繰り返される、お決まりのようなものだ。
そう、俺は味噌汁ご飯が大の好物だ。
けれど、鈴代にはそれがどうしても気に入らないようなのだ。
残り物の味噌汁とご飯で朝食が済むのだから、結局のところ彼女も手間が省けて文句はないのではないか、と思うのだが……。
一晩経ってじっくり味の染み込んだ大根や茄子。崩れてグズグズになった部分に味噌の濃厚な風味が染み込んだ木綿豆腐。程良く煮詰まった汁は味噌の香りが香ばしい。
一般的に、味噌は煮込み過ぎると香りが飛んでしまい不味くなる、と言われている。
けれど俺は良く煮込んだ味噌汁が好きなのだ。
鈴代が使っていた味噌が、豆味噌をベースにした物だった、というのもあるからかもしれない。
豆味噌は煮込んだ方がコクと深みが増して、更に美味くなるような気がする。
「味噌汁ご飯が好物だなんて、恥ずかしいから外で言わないでよね。私、他にもっとちゃんとした料理も作っているでしょう?」
「確かに鈴代が作る肉じゃがや茶碗蒸しは美味いよ」
俺がそう言うと彼女は満足そうに頷いた。
「でも、それを毎日食う、となったらどうだろう?」
「……さすがに飽きるかな?」
「それに引き替え、味噌汁はほぼ毎日食ってるじゃないか」
「そうだけど……」
「しかも翌朝味噌汁ご飯にしても『美味い』と言うんだから、最高の褒め言葉なんじゃないかな」
俺の言葉に、鈴代は何だか納得いかない、というような顔をして首を傾げていた。
鈴代がいなくなってからも、何だか無性に味噌汁ご飯が食いたくなる時がある。
仕方がないので、俺は飯を入れる用の味噌汁を自分で作ってみるのだが……。
それがどうしてもしっくりこないのだ。
鈴代がいつも買っていた味噌を使い、いつも使っていた顆粒出汁を入れてみても……。
どことなく、ほんの少しだけ、けれど確実に何かが足りないのだ……。
最初のコメントを投稿しよう!