豚と根菜の味噌スープご飯と捨てられたもの ③

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 驚いたのは、突然大きな音が耳に飛び込んできたからでもあったのだが……。  気になったのは、どう聞いてもそれはアンプに繋げられたエレキギターの音だったからだ。  プレートには、確か「弾き語り」と書かれていた筈だ。  俺は「弾き語り」と言えば、アコースティックギターなのかと思い込んでいたけれど、エレキでの弾き語りなのだろうか。  プレートに書かれた名前には、全く聞き覚えはなかったから、後ろの方でゆっくりと聴いていようと思っていたのだが……。  俺はゆっくりと立ち上がると、ステージ前に集まっている人達の間から、前を覗き込んでみた。  黒い頭の向こう側にチラリと見えるのは、50歳ぐらいだろうか、中肉中背、特に洗練された感じもしないジーパンにTシャツ、アーティストとして人を惹きつけるものなど何も感じない、言ってみれば……、ただのおっさんだった。  そして、ステージで椅子に腰掛けているおっさんの手元を見てみると、使い込まれた様子のサンバーストカラーのストラトキャスターが、渋い艶を放っている。  やはりアコギではなくエレキでの弾き語りらしい。 「ほんじゃ、いきます」  おっさんがメガネの女性店員に向かってのんきな声をかけると、軽快なリズムを刻んでいたBGMがフェードアウトしていく。  そこだけポッとオレンジの光が灯るステージの上で、おっさんが奏で始めたのは、ストラトの音とは思えない何だか優しい音色だった。  それでもアンプで増幅されたその音色は、腹の芯まで響いてくる強さも持ち合わせていた。  そして、その外見からは想像できないおっさんの伸びやかで優しい歌声が、ギターの音に重ねられていく。  どこかで聴いた事がある、と思っていたら、鈴代が好きだと言っていたイギリスのロックバンドの曲を弾き語り用にアレンジしたもののようだ。  俺は大勢の人に聴かせるような技量も、特別な魅力も持ち合わせていなかったけれど、何故だか鈴代にギターを弾いてやらなかった事が、悔やまれてくる。  特段変わらない彼女との日常の一つ一つを、もっと大切に過ごしていれば良かったと、今更になって思う。  特別なものなんていらないのだ。  本当に大切なものさえあれば……。  けれど当たり前のように目の前にあると、その本当の価値を忘れてしまう。  今そこにある事だけを大切にして生きていける時期なんて、そう長くはないのに……。  今更気がついたってもう遅のだろうが……。
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