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「……名古屋にいる娘と同居する事が決まったんです。4月から孫も一人暮らしを始める予定で、部屋が一つ空くからって」
それは前から娘に言われていた事だった。
5年前、妻に先立たれてから一人暮らしだった俺を、気にかけてくれての事だと思う。
けれど俺は、どうしても鈴代と長く暮らしていた今の家を離れる気になれなかったのだ。
「ずっと踏ん切りがつかないでいたのですが……。実際は自分で思っている以上に歳をとってしまっているようでしてね。最近色々な事を忘れてしまうようになったんですよ。窓を開けたまま寝てしまったり、火にかけた事を忘れて鍋を焦がしてしまったりだとか……」
髪に白いものが混じっている女性は深刻な顔で頷いてみせた。
そしてそういう時に限って、娘が家にやってくるのだ。味噌汁を焦がした匂いは時間が経っても残っているらしい。
「とうとう娘に『施設に入るか一緒に暮らすかのどちらかにしないと縁を切る』と言われてしまったんです」
「……そうなんですね」
でも確かに潮時だなとも思う。
こんな俺でも一緒に暮らしても良い、と言ってくれる人間がいるのだ。
いつまでも自分のやりたいように生きていける訳でもないのだろう……。
「でも、娘の旦那が猫アレルギーでね……。猫は一緒に暮らせない、と言われてしまって……」
「だからって、ブチを捨てるなんて酷い!」
女の子の強い言葉に、鈴はビクリと体を震わすと俺の膝から飛び降りてしまった。
そして暫く辺りをウロウロしてから、床の上に静かに腰を下ろすと毛繕いを始めた。
「捨てた訳ではないんです。酔っ払って窓を開けたまま寝てしまい、気が付いたらいなくなっていたんです……」
それは嘘じゃない。
嘘ではないけれど……、そんなつもりが全くなかったと果たして言い切れるだろうか……。
鈴のもらい手が見つからず困っていたのも事実だし、今まで鈴が逃げてしまうような窓を開けたまま寝た事なんてなかったのだ。
いくら酔っていたとしても……。
「迷子猫の届出はされていないですよね」
女性の言葉に思わず俺は下を向く。
「確認はしていたんです。ブチ猫捕獲の情報はないかって」
そう、俺は鈴が弱っていたり殺処分されそうならば名乗り出るつもりだった。
運良く新しい飼い主に見つけて貰えないかと、内心期待しながら……。
そして見つけてしまったのだ。
少し痩せてはいるものの、元気そうにしている鈴の写真を。
「音の食堂」の黄ばんだ壁にあった迷い猫の張り紙に写っていたのが、怯えた様子の鈴だったとしたら、俺は店主に声をかけたのかもしれない。
けれど、そこに写されていたのは、好奇心いっぱいにカメラに向かってこようとしている元気な鈴の姿だった。
そこには鈴を保護している女性の連絡先が書かれていたけれど、俺は見て見ぬ振りをしたのだ……。
「生き物を飼うって事は、その動物の生と死に責任を持つ事、なんだってお母さんが言ってた」
女の子の言葉に俺は思わず顔を上げる。
そして彼女の大きな瞳は柔らかな色を宿したまま、ゆっくりと鈴に向けられた。
「果音、目の前で猫ちゃんが動かなくなっちゃったりしたら、怖くて何もできないと思うんだ。だから動物を飼うのは、ちゃんと死に向き合えるようになってからにしよう、って決めたんだよ」
女の子の白い指先が、鈴の白黒ブチ模様の毛を優しく撫でていく。
鈴は俺が撫でてやる時のように気持ちよさそうに目を細めた。
「……すみません」
俺はその責任から逃げたのだな……。
もしかして俺は、動物病院の前に飼えなくなった猫を捨てていく人間と同じ事をしていたのかもしれない。
その命の選択を他人に押し付けて、自分は飼い主としての責務を果たしたと……。
鈴は妻が亡くなって暫くしてから飼い始めた猫だった。
「お母さんと同じ名前を猫につけるなんて趣味が悪い」
娘は顔をしかめながらそう言っていた。
「同じじゃない、母さんは鈴代で猫は鈴だ」
そう答えはしたけれど、鈴代の死は突然で、俺は一人残された事実をなかなか受け入れられなかったのかもしれない。
その時は、鈴代に大した事をしてやれなかった、もっと目の前にある幸せを大事にすれば良かった、と後悔していたのだ。
そんな事を思いながらも俺は、直ぐ目の前にあった筈の鈴を大事にしていただろうか……。
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