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辛口ジンジャエールと本当の自分 ①
その場を満たすのは、鼓膜を震わす激しい音と、熱く沸き立つ人々の感情、そしてアルコールとタバコの匂いだった。
巨大なスピーカーから吐き出されてくるのは、凶暴なファズ(*)の叫びと、地の底から掴みかかってくるような重低音。
キックの振動が鼓動を刻み、キレのあるハットの音がそれを沸き立たせる。
血液と共にに熱く体中を駆け巡っていくのは、掻き鳴らされる金属の弦の振動だ。
私の内にあるリズムがそれらと共鳴し、新たな音となって心の中の鼓膜を震わせていく。
そして、それら全ての中心にいるのは……、あの人だった……。
心のうねりが吐き出されるボイスとなり、忙しなく動き回る骨太の指先が、セルロイドのピックが、マーシャルアンプから吐き出されるノイズ音に血を通わせる。
まるであの人自身が大きな楽器にでもなったかのように……。
正に、そこが世界の中心だった。
ただ目の前にあるものだけが全てだった。
他には何もいらない……。
と私は思う。
けれどそう思っているのは、夢の中の自分だ。
今の私はちゃんとわかっている。
すっかりシワが目立つようになってきた小さな手のひらには、何も残っていないという事を……。
手のひらでざらりとしたコットンの感触を確かめてから、私はゆっくりとベッドの上に体を起こした。
枕元から手探りで目覚まし時計を引き寄せる。
デジタル時計が示しているのは、4時44分。
暗い闇に向かって私は大きく息を吐き出した。
毎年、この日はいつもこの時間に目が覚めてしまう……。
心臓の音がいつもよりも大きく聞こえるような気がする。
けれどそれは、夢の中で彼の音を聴いていた時のように心躍らされるものではなかった。
キリキリと締め付けてくるような心臓の拍動音だ。
素足をベッドから下ろすと、足の裏にフローリングのひんやりとした感触が伝わってきた。
暗闇の中手探りで進んでいくと、無機質なアルミサッシの感触が指先に触れる。
古い雨戸をガタガタといわせながら横にスライドさせていくと、外の空気がすうっと部屋の中に流れ込んできた。
私は紺色のパジャマの袖を静かにさする。
シラカシの枝の向こうに広がる空は少し白んできていたけれど、家々の窓は無言で、まだ夜の気配が至る所に感じられる。
ちょうど16年前と同じような空だった。
あの日、奏一郎も、赤信号を無視して交差点に高速で進入してきたワゴン車に跳ね飛ばされながら、この空を眺めていたのだろうか……。
いや……、救急隊が到着した時には既に心肺停止の状態だったそうだから、そんな余裕はなかっただろう……。
長く苦しまなかった事だけが、せめてもの救いなのかもしれない。
16年前のちょうど今日、何故だか私は朝早くに目が覚めた。
何だか嫌な夢を見ていたような気もしたけれど、それすらも、もうわからなくなってしまった。
後からおこった本当の悪夢が、私の記憶を曖昧にしているのかもしれない。
朝ベッドメイクしたままの奏一郎の布団が、オレンジ色の常夜灯の灯りを何だかおどろおどろしく返していたのを思い出す。
ライブ後の打ち上げで朝帰り、なんていつもの事だった。
けれど私はその時、何だか嫌な予感がして雨戸を開けた。
夢から覚める時、奏一郎の声が聞こえたような気がしたのだ。
早朝のシンとした気配が、窓枠の向こう側にある世界を覆っている。
耳を澄ませてみても、奏一郎の声など聞こえない。
目の前に広がっている光景が、脳細胞に残っている16年前のものなのか、それとも今現在視神経を伝わって像を結んでいるものなのか、一瞬わからなくなって混乱する。
慌てて私は自分の小さな手のひらを広げてみる。
大丈夫。
骨張った指には、16年分の細かいシワが刻まれている。
細かなひび割れのできている指先は、長年の水仕事のせいだ。
私は16年分の想いを握りしめるように、手のひらをきゅっと閉じた。
いつの間にか辺りはだいぶ明るさを増してきていた。
まだ地平線の下にある太陽の光は、東の空に浮かぶ雲を徐々に蛍光オレンジとブルーグレーのグラデーションに染めていく。
天空をダイナミックに変えてゆくその光景は、何だかプロジェクションマッピングでも見ているみたいだ。
美しく西の空を焼く日の入りとは違い、どこかよそよそしく感じるのは、まだ街が目覚めていないからだろうか、それともただ受け取る側の問題なのか……。
あの日、刻々と変わってゆく日の出前の空の色を、ただ不安にかられながら眺めているだけではなく、直ぐにリアクションをおこしていたのなら、何か変わっていたのだろうか。
もしかしたら、息を引き取る前に一目でも奏一郎に会う事ができたのではないか……。
いや、考えても仕方ない事だ。
私はここで自分の罪と向き合いながら、一人で生きていくしかないのだから……。
* ファズ——歪み系エフェクター
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