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「琴音さん、何か軽く召し上がりますか? 梅干しは二日酔いに効くと言いますよ」
リビングに戻ると、すっぴんになった私に店主が声をかけてきた。
食欲はなかったけれど、梅干しは食べておいた方がいいかもしれない。
「何から何まですみません」
私は頭を下げながらお借りしていたタオルを差し出した。
「いえいえ、昨日は随分と売り上げに貢献していただきましたから」
そう言って店主は悪戯っぽい笑顔を向けた。
そんなに飲んでいたのか……。
私が項垂れていると、古いダイニングテーブルの上に、コトリと水色の茶碗が置かれた。
地の厚いどこか素朴な風合いのある茶碗からは柔らかい湯気が立ち昇っている。
「お店の残り物で作った物ですが、よかったらどうぞ」
「ありがとうございます」
レースのカーテンから差し込む光が、茶碗から上がる湯気の粒子を静かに揺らしている。
穏やかな店主の佇まいも、古いけれど丁寧な暮らしぶりを感じさせるこの家も、どこか懐かしい雰囲気が漂っていて、なんだかつい甘えてしまう。
店主はあまり物と言っていたけれど、大ぶりの梅干しに塩昆布、殻付きのアサリまで入っていた。
ふっくらとした梅干しの実にスプーンを入れる。
食欲が無い、と言っておきながら、口の中に唾液が広がってくるのがわかった。
半透明のスープと共に口に運ぶと、ふわりとごま油が香った。
アサリの磯の香りと、梅干しの酸味。
それらをまとめるのはコクのある中華スープだ。
それぞれの素材の持つ旨味が、幾重にも重なり合い、口一杯に広がっていく。
「美味しい。……梅と中華スープって合うんですね」
「昨日は中華スープしか残らなかったので、どうかな、と思ったんですけど、お口に合ったようで良かったです」
少し塩味の濃い味付けも、二日酔いには丁度よく、私は控えめに入れられていた白米と共に、ペロリと平らげてしまった。
最後の一滴まで飲み干された水色の茶碗を眺めながら、私はつい思った事を口にしてしまう。
「私も『音の食堂』で働かせてもらえませんか?」
店主は目を見開いてみせてから、ちょっと困ったような顔をした。
「丁度、お昼に来て貰っているパートさんが来月一杯で辞めてしまう事になったので、私としてはありがたいですけど……。琴音さんが生活していけるだけのお給料を出すのは難しいと思いますよ」
「それでも構いません」
本当にそれでもいいと思った。
仰々しい経営理念とかはどうでも良かった。
ただ今、目の前にある事、それを大切にして生きていきたい、とそう強く思った。
「そうですね、琴音さんが新しい生活を始めるまでの間、少しゆっくりした方がいいのかもしれませんね」
店主はそう言うと、目尻にシワを寄せてふわりと微笑んだ。
「この家と同じ敷地内にアパートがあるんですけど、琴音さんが新しい住まいをみつけるまでの間、良かったら使いますか? ちょっと古いですけれど」
「え? いいんですか? とってもありがたいです」
私はそう答えてから、首を捻る。
確かにありがたいけれど、どうして私が行く場所がない事まで知ってるんだろう……。
そしてそもそもが……。
「あの……、どうして私の名前を知ってるんですか? 今、帰る所がない事も……」
今度は店主が首を捻る番だった。
「どうしてって、昨日、琴音さんがご自分でおっしゃったんじゃないですか」
「えっ、……全部、喋っちゃったんですか?」
私は厄日なのかと思えるくらい色々な事があった昨日を思い出す。
「全部かどうかはわかりませんけれど、『クソ男のいる家になんか帰るもんか。あんな奴クソ女にくれてやる』だとか、『あんなブラック企業、今すぐ辞めてやる。何が地域の農業に貢献する、だ。従業員を使い捨てにしやがって』だとか言ってましたね」
店主の言葉に冷や汗が額の辺りを伝う。
「あと、昨日自己紹介させていただいたのですが、琴音さんは忘れてしまっているようなので……。私、『音の食堂』の店主で瀬尾 響子と申します。昨日は響子と呼び捨てにされていらっしゃいましたけど」
響子さんの言葉に、背中の辺りに冷たいものが流れていった。
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