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フカフカの生地でできたパンダのパスケースをかざすと、ピピっといつもの電子音が鳴る。
改札前の自由通路には、会社帰りのおじさんやスーツを着た女性、あとはたまに制服を着た女の子なんかなんかも歩いていて、門限10時半は少数派なんだなぁ、と思う。
後から改札を抜けてきた智君の大きい手のひらに、もう一度自分の手を絡ませる。
智君の家は別の私鉄駅なんだけど、デートの時はいつもあたしの家の前まで送ってくれる。
二人だけで手を繋いで歩けるこの時間が、あたしにとってはちょっとした幸せなんだ。
爆音に慣れてしまった耳には、電車の中のざわめきも、夜の街の騒々しさも、何だか別の世界の事のように聞こえる。
直ぐ隣を見上げると、智君が耳を手のひらでぽんぽんと叩いていた。
「智君、耳がキーンってなっちゃうなら、今度から後ろの方へ行っててもいいよ」(*)
あたしがそう言うと、智君は口を尖らせてみせる。
「果音一人にして、俺だけ後ろにに行く訳いかないだろ? そういうとこ、果音は子供なんだから」
智君の言葉に今度はあたしが口を尖らせる。
智君は何かとあたしの事を子供扱いする。
お誕生日が3ヶ月違うだけの同い年のくせに。
でも、果音は大人だから、許してあげる。
「果音は小さい頃からずっとああいう音楽を聴いていたかもしれないけど、俺は果音と付き合ってからだからまだ慣れてないんだよ」
智君の言葉にあたしは首を捻ってみせる。
「ウチはずっと響子さんや奏一郎叔父さんの音楽を聴かせてもらえなかったの。高校までは門限6時だったから、もちろんライブなんか行けないし」
「ああ、そっか」
「でも何でだろう……」
「あんま小さい子供に聴かせるような音楽じゃないからじゃね?」
「うん、そうかもしれないけど……。『音の食堂』もお酒を出すところだから行っちゃダメだって」
「果音のお母さん厳しいからな」
「でもね、プチ家出して帰って来ると、お母さん家で普通に待ってるんだよ。多分、果音が『音の食堂』に行ってたの知ってたの」
「そっか、心配性のお母さんの事だから、普通だったら警察とか電話してるな」
智君の言葉にあたしは頷いてみせる。
「果音は響子さんに言いたい事言ってスッキリしてたから、その時は気づいてなかったけど、きっと果音が家出する度に二人は連絡を取りあってたんだと思う」
「だって二人は姉妹なんだろ? 普通じゃね? 果音のやりそうな事くらい誰だって直ぐわかるだろ?」
最後のセリフは納得できないけど……。何て言うか……。
「お父さんもお母さんも、『音の食堂』には行くな、ってスタンスなんだけど、二人は響子さんの事が嫌いな訳じゃないんだ」
「それも普通だと思うけど……」
「そうなんだけど……。お父さんとお母さんはどこか響子さんに気を遣ってるところがあるんだ。それはきっと響子さんがいつまでも一人でいるから……」
「そっか……」
「だからね、サウノイとか涼子さんの曲を聴いたのは、高校生になってから。動画配信サイトとかで、コソッと」
「そうなんだ」
「初めて聴いた時はビックリしたけど……」
でも直ぐに夢中になっちゃった。
それまではずっと、ランキングの上位に上がってる曲ばっかり聴いてたけど、不思議と自分の中では違和感なく受け入れられたんだ……。
「俺も最初聴いた時はぶっ飛んだ。果音のイメージからあまりにかけ離れてて」
智君はクリッとした二重瞼を細めて、ふふっと笑う。
「いつもライブとか付き合ってくれてありがと」
そう言って、繋いでいる手のひらにきゅっと力を入れると、そのあったかい手は同じだけの力で握り返してくれた。
「……でもね果音、ちゃんと気を遣ってお父さんとお母さんには、サウノイの曲聴きたいとか言わなかったんだよ」
「果音は大人だからね」
少し意地悪そうに笑った智君の茶色い瞳がこっちに向けられる。
「ねえ智君、辛口のジンジャエールって知ってる?」
甘くてただのソーダみたいなジンジャーエールじゃなくて、ピリッと辛いジンジャエール。
プチ家出をした時、いつも『音の食堂』で飲ませて貰ってた。
あれを飲むと、何だか大人になったような気がしてきて、お母さんの過干渉にもちょっと寛大になれるんだ。
「辛口? 強炭酸とか?」
「へえ、知らないんだ。智君、子供」
智君が「何だよー」とか言いながら、肘でつついて来たところで、丁度曲がり角になる。
この角を曲がっちゃうと直ぐ家だ。
一人で帰る時は「早く家に着かないかなぁ」って思うのに、智君と二人だと「もう着いちゃった」って思うのは何でだろう。
(*)——ライブ中、スピーカーの位置等により、耳が痛くなってしまう時がありますが、そういう時は迷わず後ろに下がりましょう。
耳を痛めてしまうと癖になってしまう事があります。
ライブ用の耳栓なんかも市販されていますので、状況により使用するのも良いかと思います。
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