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「鈴たーん。行ってきますにゃーん!」
男性が猫撫で声を上げるのと、スニーカーの下の小石がジャリっと音を立てるのが、ほぼ一緒だった。
しまった。
そう思った時にはすでに遅く、男性はギクリとした顔でこちらを振り返る。
「……おはようございます」
私は、何も聞かなかった事にして、そう声をかける。
「あ……、おはようございます」
男性は顔を真っ赤にしながら小さな声でそう言うと、そそくさと通りの方へと消えていく。
綺麗に撫でつけられたバーコード柄の頭を、朝の光が艶やかに返していた。
確かあの人は、佑弦さんの隣りの部屋に住んでいる人だ。名前は知らないけれど……。
男性の姿を見送ってから視線を戻すと、ガラス窓の向こう側にいる白黒のモフモフと目があった。
こちらに向けられているのはキラリと輝く、黄色いビー玉のような瞳だ。
手を振ってみると、私の手のひらに合わせて小さな頭が左右に揺れる。
あれからブチこと鈴は、響子さん宅の一番奥にある洋室を丸々一部屋与えられ、日中はずっとそこでのんびりと過ごしている。
そして、通勤通学で毎日のようにここを通るアパートの住人達の間で、あっという間にアイドル的存在となっていった。
鈴は、今日のように出窓に乗ってお見送りしてくれる時もあれば、キャットタワーの天辺でのんびり寛いでいる時もあるし、リビングで響子さんと遊んでいるのか、窓から覗いても見つけられない時もある。
それでもついつい覗いてしまうのは、このアパートに住んでいるのが、寂しい一人暮らしの人達ばかりだからなのだろうか。
そう言えば、昨日も果音ちゃんが鈴に会いに来ていた。
このところ、果音ちゃんは学校の行き帰りに響子さん宅へ立ち寄る事が多くなった。
でも、「鈴と遊びたい」っていうのはただの口実で、本当に会っているのは別の人間なんじゃないだろうか……。
鈴は急に興味を失ったのか、大きなあくびを一つすると、窓の向こう側へ軽やかに飛び降りていってしまった。
私は小さく息を吐く。
時々、窓を覗き込んでいる佑弦さんの後ろ姿も見かける時があるけれど、絶対いつか「鈴たん、お利口さんでちゅねー」とか赤ちゃん言葉で話しかけている彼の姿を目撃してやりたい、って思う。
私がそんな事を思っていると、背後でジャリリと小石を踏みしめる音が聞こえてきた。
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