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慌てて振り返ると、ギグバッグを背負った佑弦さんの大きな瞳がこちらに向けられていた。
その力強い輝きを真正面から受けるのは、久しぶりで、何だか胸の中が落ち着かなくなる。
通りの方から抜けてくる風が、オリーブの葉をザワザワと不安定に揺らすと、木々の隙間に消えていった。
「また猫に逃げられたのか?」
佑弦さんが向けてくる、人を小バカにしたような視線はいつも通りで、気まずさなんて欠片も感じられない。
多分、意識しているのは私だけなんだろう……。
佑弦さんにとっては、同じアパートの住人がたまたまゴミ捨ての時間を変えた、そんな程度なのかもしれない。
いや、もしかしたらそれすらも気づいていなかったりして……。
私が黙っていると、気にするふうでもなく、佑弦さんは窓の中を覗き込み始めた。
彼が前屈みになると、背中に背負われたベースも一緒に傾いていく。
左手には黒いケース、右手には小さな黄色いゴミ袋が下げられている。
「お前、バカみたいに猫に向かって赤ちゃん言葉とかで話しかけたりしてるんだろう」
「そ、そんな事する訳ないじゃん!」
『……それは佑弦さんでしょう』
そう言おうとして、睨みつけると、ふいっと艶のある黒髪が振り返った。
再び向けられた黒い瞳は、何か言いたげな光を放っているように見えたけれど、彼はほんの僅かだけ首を傾けてから、少しつり気味の二重瞼を細めてみせた。
そして形の良い唇からは「ふふっ」と小さな息が漏れる。
「な、何?」
「……いや」
そう言うと、佑弦さんはゴミ袋を持ったままの手でギグバッグの肩紐をきゅっとかけ直した。
「……これから知り合いの企画ライブに出る為に長野まで行ってくるから」
「へえ、長野」
今はバンドはやってないって言ってだけれど、サポートでそんな遠くまで行く事もあるんだな。
「帰りは遅くなるけど、ちゃんと戸締りはするんだぞ。最近暖かくなってきたからって、窓開けたまま寝たりすんなよ」
「……何、お母さんみたいな事言ってるんですか?」
何で急にそんな事言い出すんだろう……。
私は首を捻る。
今までだって佑弦さんはライブで帰りが遅くなったりしてるし、彼の帰宅時間までいちいち確認した事なんてなかったのに。
確かにここ最近は、果音ちゃんが遊びに来る度に、一階の端っこの部屋の様子が気になって仕方なかったけれど……。
「お前、いつもぼーっとしてるから」
「うるさいな!」
私がそう返すと、佑弦さんはもう一度「ふふっ」と笑ってみせた。
「じゃ、行ってくる」
そう言って背を向けた佑弦さんは、右手を軽く上げてみせる。
その手に握られていた黄色いゴミ袋の中身は、今日もちょびっとしか入っていなかった。
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