辛口ジンジャエールと本当の自分 ⑥

3/3
前へ
/167ページ
次へ
 病院に到着すると、会社から急いで駆けつけてきたのだろう、スーツ姿のままのお父さんが入り口脇のコンビニ前で手を振っていた。 「お母さん、大丈夫?」  あたしが急いで駆け寄っていくと、お父さんは目の端にシワを寄せて弱々しく微笑んでみせた。 「うん。今は鎮痛剤が効いて眠ってる。お父さんが到着した時もね、しきりと果音に迷惑かけちゃうって心配してたよ」 「お母さんったら……。あたしの事より自分の心配しなくっちゃ」  さっきお父さんからのメッセージで、命に別状はないって事は教えてもらってたけど、あたしだってお母さんの事が心配だ。 「自転車で歩道を走ってる時にね、脇の駐車場から出てきた車と接触したんだって」  お父さんについて病院のエレベーターに乗り込むと、クンって重力がかかる。  あたしの心臓も一緒にクンって押し下げられた感じがした。 「スピードが出てなかったから、引っかかった程度みたいだけれど、転倒した時に自転車に挟まれて、右腕と足、鎖骨を折ってしまったらしい」  隣りに立っているお父さんの顔が、少し青ざめているような気がする。  お父さんもきっと連絡を受けた時、奏一郎叔父さんの事が頭をよぎったんだろう。   「頭とかは大丈夫なの?」 「検査して貰ったけど、今のところ大丈夫みたいだ」  お父さんがエレベーターの開くボタンを押していてくれる間に、あたしはツルツルしたクリーム色の床に降り立った。  その先に広がっている光景は思ってたよりも落ち着いた雰囲気で、あたしはホッと胸を撫で下ろす。    面会の受付を済ませ、お父さんについて廊下を進んでいくと、その先にある病室から丁度、黒縁メガネの人物が出てくるところだった。  響子さんはあたし達に気がつくと、無言で深く頭を下げてみせた。  お父さんも何も言わず、頭を下げてそれに返した。  あたしも同じようにお辞儀をしてみせる。  こんな時くらいゆっくりしていけばいいのに……。  響子さんは、こういう時何故だか遠慮して席を外す事が多い。  それは顔を合わすのが嫌、というよりも、お互いがお互いに気を遣ってるってのがわかるから、いつもあたしはそれ以上何も言えなくなっちゃうんだ。  お父さんがドアをノックしてから、静かにそれを開ける。  手すりのついた移動式のベッドも、その周りにぶら下げられているピンク色のカーテンも、ドラマに出てくる病院のイメージそのままで、心臓がきゅっとなる。 「景子(けいこ)、果音が……」  あたしはお父さんの紺色のジャケットの袖を引っ張ると、自分の唇に人差し指を当ててみせる。 「起こさなくいいよ」  あたしがお父さんの耳に向かってそう呟くと、彼はゆっくり頷いた。  ピンクのカーテンをそっとまくってみると、真っ白いシーツに静かに横たわるお母さんの姿が目に入ってきた。  その姿は、朝学校に向かう前に見た時よりも何故だかずっと小さく見えた。  お母さんの白い顔が、寒々しい色の無地の寝具類と同じに見えてきて、あたしは慌ててその顔を覗き込む。  よく見てみると、シワのある首元にかけられていた布団が僅かに上下していて、あたしはホッと息をついた。  あたしのお母さんが今目の前に存在している唯一の証拠は、たった一枚の質素な掛け布団だけ、何だかそんな気さえしてくる。  今まで当たり前にあった筈の存在の儚さに、何だか怖くなる。  下手くそなテーブルクロス引きにでもあったみたいに、足がすっと何かに掬われたような感覚になって、体がふらついた。  思わず右手が小さく空を切る。  大丈夫だよって、誰かに大きな手でぎゅっと握りしめてもらいたい……。  その手のひらの不在が、更に不安を掻き立てる……。  何故だろう……、その時あたしが思い出していたのは、佑弦さんの白くて長い指が鈴の白黒の頭を優しく撫でているところだったんだ……。
/167ページ

最初のコメントを投稿しよう!

126人が本棚に入れています
本棚に追加