辛口ジンジャエールと本当の自分 ⑦

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辛口ジンジャエールと本当の自分 ⑦

 幾重にも薄ピンク色の花弁を重ね合わせた八重咲きの花が、優しく風に揺れる。  芽吹いたばかりの小さな葉を陽の光が赤く透かしていく。  今年もお花見をしそびれてしまった、と思っていたけれど、探してみればアパートの近くにもまだ可憐な春を楽しめるスポットがあるんだな。  そんな事を思いながら、小さなポンポンのような可愛らしい花を写真に撮ろうと、肩からぶら下げているスマホの電源を入れようとしたその時だった。  よく知った低い声が聞こえたような気がして私は手を止めた。  ピンクのまん丸い花の向こう側、更によく茂る常緑樹の葉のその先に、見慣れた背の高い後ろ姿が確認できた。  そしてその人と向かい合っているのは……。  暖かな春の風が、ふわりとそのブラウンの髪を揺らしていくと、柔らかそうな白い頬が露わになる。  私は思わず、ゴツゴツとした幹の陰に身を潜めた。  さっきまでののほほんとした気分は一気に冷めて、ドクンドクンと心臓の音が耳を打つ。  何でこんな所で二人が話をしているんだろう……。  シノハラフードを辞めて以来、毎日近い職場の往復ばかりで運動不足気味だった私は、響ヶ町神社とその周辺を散策でもしてみようか、と足を向けたのだけれど……。  ただ話をするだけならば、「音の食堂」でも事足りる筈だ。  わざわざ人の目につきにくい神社にまでやって来るだなんて……。  しかも参道から少し外れた木々に遮られた林の中だ。  風に乗って果音ちゃんの少し甘えたような舌足らずの声が聞こえてくる。  けれど何を喋っているかまではよくわからない。  佑弦さんの肩の先から見え隠れする果音ちゃんの黒い瞳は、何だか少し潤みながら直ぐ目の前にいる人を見上げている。  そして時折聞こえてくる低い声は、否定的なものではなくて、彼女を優しく包み込むように柔らかい。  こちらに背を向けていてよくわからないけれど、佑弦さんの大きな黒い瞳は、果音ちゃんを愛おしげに見つめているのかもしれない……。  私は何だか呼吸が苦しくなってきたような気がして、音を立てないよう、そっとその場を後にした。  そう、私には関係のない事だ。  私は、ただ同じアパートに住んでいるだけの人間だ。  ゴミ捨ての時間を変えたからって気がつきもしない、その他大勢の中の一人なんだから……。  私はまた過呼吸の発作が出ないよう、神社を出た所にある自販機でペットボトルのほうじ茶を買った。  ガタンガタンと音がして出てきたそれを、取り出してから、私はしまったと思った。  アイスティーとかにすれば良かった。  ペットボトルのほうじ茶は、翔真と住んでいたアパートで倒れた時の事を思い出してしまう。  背中から包み込んでくれる佑弦さんの逞しい腕と、心地よい体温。  優しく耳をくすぐる低い声。  それらはもう、私に向けられる事はないんだろうから……。  佑弦さんの言っていた、大切にしたい「目の前にある事」は、やはり果音ちゃんの事なのだ。  そして、「傷つけてしまう誰か」とは智樹君と、あとは……。  私……。
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