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「お先に失礼します」
レジに向かってそう声をかけると、私は自動扉の向こう側に恐る恐る視線を向ける。
今日も翔真が待ってたらどうしよう……。
駅に近い事もあって、コンビニ前の通りはこの時間でも結構人通りはある。
もし、いたとしても、また大きな声を上げれば大丈夫だろう……。
私が足を踏み出した瞬間、行き交う人の流れの中に黒い人影を見つけて、心臓が大きな音を立てた。
黒のジャケットに身に包んで気怠げに歩いて来るのは……。
「……佑弦さん」
見知った顔を見つけて思わずホッと息をつきつつも、胸の奥の方はどうも落ち着かない。
「ふーん。ここがお前のもう一つの職場か……」
佑弦さんは長い前髪の奥の瞳を、コンビニの灯りに向けると、言葉を続けた。
「……駅からも近いし、人通りもあるし、まあ、いいんじゃね?」
「……まあ、……うん」
何が「まあ、いい」のかよくわからなかったけれど、私はとりあえず頷いておく。
「佑弦さんは何処に行くんですか?」
「帰るとこ」
「そ、そうなんですね……」
隣を歩く黒いジャケットの肩は、こちらの気も知らず、何とも呑気に揺れている。
けれど、佑弦さんは、果音ちゃんと二人で神社にいたのを私が目撃していた事も知らない訳で……。
「バイト10時まで?」
「……うん」
「じゃあ、『音の食堂』の時の方が遅くなるな」
「音の食堂」の営業時間は夜中の1時までだけど、あらかたの片付けと翌日分の仕込みが終わっていれば、響子さんは早めに帰してくれる。ライブ営業をしていない日に日付をまたぐ事はまずはない。
果音ちゃんがピンチヒッターで入る時は、10時までに上がってもらわなければならないので、響子さんはちょっと忙しそうだ。
「別に私は、果音ちゃんみたく門限が10時半とかじゃないから……」
自分で「果音ちゃん」というセリフを口にしてみて、何故だか頬が熱くなるのを感じる。
私は佑弦さんに気づかれないよう、そっとアスファルトに視線を向けた。
「当たり前だ。一人暮らしで門限があってどうする」
「うるさいな」
「お前、いつもボーっとしてっから。夜遅くなる時は気をつけんだぞ」
佑弦さんの言葉に、私は思わずその整った横顔に目をやった。
えっ、それって……。私の事を心配してくれてるって……事?
「……何?」
長い前髪の向こう側で、吊り目がちの大きな二重瞼が怪訝そうに細められる。
「い、いや、別に……」
私はまだ頬の赤みが残っているような気がして、手のひらでそれを押さえながら再び下を向いた。
多分、佑弦さんの言っているのはごく普通に、「女性の一人歩きは気をつけろ」って事なんだろう。極々一般的に。特に他意はなく。一般常識として……。
だって神社で二人はあんなにいい雰囲気だったんだし……。
佑弦さんが私の事を特にどうこう思う訳なんてないんだから……。
翔真の言っていた通り、騙されちゃ駄目だ。
何だか佑弦さんはズルい。
私の事なんて何とも思っていない癖に、時々こうやってドキドキさせるような事をする。
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