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辛口ジンジャエールと本当の自分 ⑧
緑の湖の底の方は思ったよりも潮の流れが早いみたい。
長い時間をかけて蓄積されてきた汚い泥を巻き上げながら流れていく。
でも、もしかしたら、辺りがいつもよりも濁って見えるのは、自分の心の中が汚れているからなのかもしれない……。
涼子さんの紡ぎ出す緑の流れに身を委ねながら、あたしはあの日病院から帰ってからお父さんと交わした会話を思い出していた。
「果音、話があるんだ」
コンビニのお惣菜で済ませた晩御飯を片付け終えると、お父さんが何やら真剣な表情でそう声をかけてきた。
お父さんのシリアスな顔つきに、あたしの心臓がドクドクとなる。
もしかしたらお母さんは思ったよりも悪いのかもしれない……。
「果音、お前は自慢の娘だ。お父さんもお母さんも果音の事を本当に大事に想っている。……愛してるよ、果音」
自分の親から「愛してる」なんて言われて何だかちょっとくすぐったくなる。
けど、今大事なのはお母さんの事だ。
あたしは唇をきっと結ぶと、お父さんの二つの黒い瞳を見つめ直した。
「お父さんとお母さんは、お前を大事にしようとするあまり、今まで厳しくし過ぎてしまったみたいだ……。悪かったね」
首を横に振ると髪の先がピシピシと頬に当たる。
「ううん。果音も家出とかして迷惑かけちゃってごめんなさい」
お父さんはあたしの言葉に小さく頷いてみせると、少し考えるようにしてからゆっくりと口を開いた。
「……言い訳になるかもしれないが、そういう想いもあって、ついお前に伝えるのが遅くなってしまっていたんだ……」
『お母さん、どこか悪いの?』
そんな事、口にしてしまってはいけないような気がして、あたしはそれ以上言葉を繋げないでいた。
けれど、お父さんの口から伝えられたものは、想像もしていなかった事だったのだ……。
あたしの体から湧き出した小さな気泡が緑の液体の中、水面へ向かってコポコポと揺れながらゆっくり昇っていく。
それを追いかけるように体をくねらせると、あたしの体は、静かに揺れる湖面に向かって上昇を始めた。
そして、あたしは水面から顔を出すとプハッと大きく息を吐く。
胸の奥の方でドヨドヨと黒く燻っているものも、一緒に吐き出してしまえたらどんなに良いだろう、って思う。
頭上に広がるのは、星一つ見えない覆いかぶさるような真っ黒い天。
そしてうっすらと銀に輝くまん丸い大きな月が一つ……。
モジュラーシンセから紡ぎ出される電子音が、黒い空間に静かに消えてゆくと、辺りから拍手が起こった。
全てが黒く塗られた天井付近では、お月様みたいにまん丸なミラーボールがひっそりと出番を待っている。
あたしはミラーボールの辺りでゆらゆらと漂っていた視線を、ステージ上でお辞儀をしている涼子さんの方にゆっくり移動させた。
モジュラー同士を繋いでいる赤と青のケーブルが、何だか動脈と静脈にみたいに見える。
それは、病院のベッドに横たわっていたお母さんの白い顔を連想させて、胸の奥の方がキュウと縮こまる気がした。
お母さんは今も病院のベッドで一人、辛い思いをしているんだ……。
あたしはフロアで談笑する人達をかき分けると、ステージで機材を片付けている涼子さんに近づいていく。
「あら、果音ちゃん。どうしたの? もう10時過ぎてるわよ?」
いつものように柔らかい笑顔を向けてきた涼子さんは、あたしの真剣な表情に気がつくと、艶やかな唇をきゅっと引き締めた。
「……教えて欲しい事があるんです」
そして、涼子さんはあたしの言葉に、ゆっくりと息を吐き出してみせてから、小さく呟いた。
「そういう事……か」
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