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「その人のバンドもずっとメンバーチェンジを繰り返していてね、ある時奏一郎がそこにサポートギターとして参加したの」
響子さんは昔を懐かしむように、何もない空間にふっと視線を送ってみせる。
彼女の瞳には、今も奏一郎さんの姿が見えているのだろうか、ほんの一瞬だけその黒の奥に艶やかな熱が灯ったように見えた。
けれど、響子さんはそれを打ち消すように唇をきゅっと結んでみせると、いつもの穏やかな眼差しに戻した。
「彼の音は明らかに他とは違っていた。あくまでもサポートだから目立ったギターソロとかがあった訳ではないのだけれど、何気ないフレーズの一つひとつから、簡単なコードバッキングからでさえ、彼の圧倒的な存在感が滲み出ていたわ。気がつくと、ステージの一番端にいる彼に目が吸い寄せられて、離せなくなっていたの」
果音ちゃんの白い手のひらが、茶色い湯呑みをぎゅっと握りしめる。
普段からサウノイの曲を聴いている果音ちゃんは、サウノイの、瀬尾 奏一郎さんのファンでもあるのだ。
けれど、この状況で響子さんの口から奏一郎さんの話を聞くのは、複雑な心境なのかもしれない。
「格が違うって思った。ステージに立つ資格がある人というのはこういう人の事をいうのだって……。だから、惰性で続けていたバンドは解散して、そして私は果音の父親にも別れを告げたの」
「そう……」
果音ちゃんの湯呑みを置く音が、BGMを消した店内にコトリと響いた。
「……果音がお腹の中にいるって気がついたのは、その後だった……」
「……じゃあ、その人は果音の事は知らないの?」
果音ちゃんの言葉に響子さんは大きく頷いてみせる。
「果音が6ヶ月になるまでは、殆ど家からも出ずに過ごしていたの。だから私が子供を産んだ事を知っているのは涼子とあとは数人の友人だけだったわ」
そう言えば、すっぴん姿のシングルマザーの女の子が店にやってきた時、響子さんはやけに饒舌だった……。
いつもだったら、相手に寄り添いながら自分は聞き役に徹っする事が多かったのに。
あの時話していたのは、響子さん自身の事だったのかもしれない……。
「それが、何で……」
「果音のお婆ちゃんが、あまりに家に引きこもってばかりいる私を心配してね、『たまには果音を自分達に預けて息抜きをしてくればいい』と言ってくれたの」
果音ちゃんがその大きな瞳で響子さんをじっと見つめると、響子さんは再び視線を床の上に落とした。
「その時ちょうど奏一郎がサウノイを結成したって噂を聞いていて、最後に一度だけ、ライブを観ておこうと思ったの。それで音楽に対しても奏一郎に対しても、残っていた未練を断ち切ろうと思った」
「でも、ダメだったんでしょ?」
「結局は、そういう事ね……。そして、夜遅く帰ってきた私を待っていたのは姉だったわ。このまま果音を自分達に育てさせてもらえないかって頼まれたの」
「それはお父さんから聞いた。お父さん達はずっと欲しかったのに何年も子供ができなくて、それだったらせめて、お母さんと血の繋がりのある響子さんの子供を育てさせてもらいたいって思ったんだって。だから、響子さんにどうしても、って言って頼んだんだって」
「でも断ろうと思えば私にはできた筈なの。私が産んだ子供なんだから……」
果音ちゃんは響子さんに似た黒い瞳を、狭い店内に向けた。
黒く塗られたステージには、隅に寄せられたドラムセットと電源の入っていないアンプが置かれている。
カウンターとキッチンの間には沢山のアルコールの瓶。
響子さんが大切にしてきた目の前にあるもの。
そしてそのせいで傷つけてしまったもの……。
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