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「……がっかりしたでしょう? 偉そうな事言っていて、私はこんな人間なんです……」
響子さんはスツールに手をかけると、倒れかかるようにしてそこに腰を下ろした。
「いいえ……」
私は何と答えたらいいのかわからなくて茶色い湯呑みに視線を落とす。
湯呑みの中のほうじ茶はすっかり冷めてしまっていた。
「でも……、響子さんが果音ちゃんを手放したのは、果音ちゃんの幸せを考えての事ですよね?」
「確かに、あの時は私もそう思っていたわ。当時、私には仕事もなければ貯金もなかった。一緒に果音を育ててくれるパートナーもいない。あの人と別れたばかりの私には住む場所すらなかった。だから実家に身を寄せてたの。かつて音楽活動を大反対されて飛び出したその家に」
「そうなんですね……」
「そんな私に育てられるよりも、公務員である隆史さんと姉に育てられた方が果音にとっても幸せなんじゃないだろうか、って」
「そんな事は……」
「でも、最終的に決めたのは私自身よ。果音ではなく、音楽と奏一郎を選んだの。自分の為に……」
「それでも、お姉さんご夫婦に強く望まれたんですよね?」
「そうね……。でも、姉の提案を聞いて私は心のどこかでホッとしていたんだと思うわ。結局、私が家にこもっていたのは、自分の想いに蓋をする為だったのよ。でも、一度でもサウノイのライブを観てしまったら、あの熱い世界に触れてしまったら、私には、もう音楽と奏一郎への想いを止められなくなっていたの」
そう言って響子さんは、果音ちゃんとそっくりな黒い瞳をステージの方へ真っ直ぐに向けた。
「音の食堂」は地下にあるうえ、防音になっているので、外の音は殆ど聞こえてこない。
普段は柔らかなBGMか生演奏の音が満ちている店内も、閉店後の今は、空気が肌に突き刺さってくるかのようにシンとしている。
そしてその音色のない世界の中で語られる響子さんの言葉は、リアルな振動となって胸に迫ってくる。
けれど、私にはその胸に秘められた熱い想いをどう支えてあげればいいのか、わからないのだ……。
「もし姉の申し出がなかったとしたら、きっとそのうち私は自分の子よりも音楽や奏一郎の事を優先して、果音を不幸にしてしまっていたと思うわ」
「そんな事はないと思います……。果音ちゃんなら、きっとどんな境遇でも真っ直ぐに育ったと思います」
「それは姉夫婦が果音を大事に育ててくれたからよ。私にはあんなに素直で真っ直ぐな娘には育てられない……」
果音ちゃんの心の奥にある、真っ直ぐで芯のある部分。
その芯の強さは響子さんに似ていると思う。
自分の想いをしっかりと持ち続ける強さ。
たとえそれが誰かを傷つける事があったとしても……。
そして、その事実から逃げる事なく、自分の醜さをもしっかりと受け止め、それでも前を向いて生きていける強さだ。
「もしもう一度あの時に戻っだとしても、きっと私はまた自分の子よりも音楽と奏一郎を選ぶんだと思うわ」
そう言うと響子さんは、すっかり冷たくなってしまったほうじ茶をゆっくりと啜った。
そしてマスカラで盛られていない長い睫毛がゆっくりと伏せられる。
「でも、そのくせして果音の事が気になって仕方なくて……。果音が私に会いに来てくれる度、嬉しくて……。それを黙認してくれていた姉夫婦には感謝してもしきれないわ」
「それは……仕方ない事だと思います……」
自分の産んだ子供なのだ。気にならない訳がない……。
そして、響子さんはカウンターの上に湯呑みをコトリと置くと、吐き出すように言葉を繋いだ。
「それが一生涯向き合っていかなくてはならない私の罪なのよ……」
いつもモノトーンの地味な格好をしている響子さん。
それは奏一郎さんへの想いがそうさせているのかと思っていたけれど、きっとそれだけではないのだろう。
響子さんは、自分への戒めの為に敢えてそうしていたのかもしれない。
成長するにつれ、自分そっくりになっていく果音ちゃん。
それを周りの目から隠す為。
その事実を自分の意識の中から追い出す為。
一人になってしまったからといって、果音ちゃんを取り戻す気なんてない、という事をお姉さん夫婦にアピールする為。
そしてそれを常に自分自身に突きつける為に。
あの広い家の中で、響子さんは自分自身の罪と向き合いながら、今日も一人で生きているのだ……。
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