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アサリの中華スープと大切なもの ①
「あー、ここか……」
何度も通り過ぎてしまってから、私はやっとそのお店の入り口を見つける事ができた。
一階にある飲食店の、その脇にある通用口のような隙間の更にその先に、地下へ続く階段がぽっかりと口を開けていた。
よく見ると、階段の手すり部分に「本日のライブ」という看板がかけられている。
それでも私はまだその階段に足を踏み入れられないでいた。
挙動不審に辺りをウロウロしている私を、一組の男女がうさん臭げに眺めながら一階の飲食店へ入っていく。
「明日、佑弦君のライブがあるから行ってあげてね」
響子さんがどういう意味でそう言ったのかよくわからなかったけれど、昨夜は響子さんを慰める会だった筈なのに、結局彼女は最後まで人に気を遣っていた。
あの後戻ってきた佑弦さんに、残っていた食材で賄いを作ってくれたり、結局辛口ジンジャエールを飲みきれない私に別のドリンクをご馳走してくれたり。
終いには、「私には鈴がいるから大丈夫」と女子会も早々にお開きになってしまった。
私は響子さんの役に立っているんだろうか、と不安になってしまう。
でも、もしかしたらいつも通りにしている方が、響子さんも気が楽なのかもしれない。
適度な距離感をもって相手に寄り添うのが、「音の食堂」なのだから……。
だから今日、私がここに来たのは、佑弦さんに会いに来た訳ではなく、響子さんに来るように言われたからなのだ。
私は別に佑弦さんのライブなんか見たかった訳でもなんでもない。
そう、これは響子さんの為だ。
私は意を決すると、「音の食堂」に似て暗くて狭い階段を慎重に下りてゆく。
実のところ、私はライブバーに勤めていながらも、所謂ライブハウスという所に入った事がないのだ。
「クラフト少年」のコンサートはいつももっと大きなホールかアリーナだったし。
しかも一人でだなんて……。挙動不審にならない方がおかしいというものだ。
階段を下りた先の狭いスペースには小さな台が置いてあり、ショートボブの毛先だけをピンクに染めた女性が座っている。
おそらくそこが受付にあたるのだろう。
私は俯きながら声をかけた。
「あ、あの、チケット持っていないんですけど……」
「当日券3000円とドリンク代600円でーす」
女性は綺麗にメイクされた小さな顔に、何の感情も浮かべないままそう言った。
「お目当ては?」
「は? え……えっと、さ……佐渡 佑弦さんです」
突然の質問に私はとりあえずそう答える。
せめて佑弦さんの出るバンド名を訊いておけば良かった……。
これでは佑弦さん目当てにやってきた、にわか女みたいじゃないか……。
いや、佑弦さん目当てなのは間違いないのだけれど、そういう事じゃなくて、えーと……。
「ドリンクコインでーす」
私が一人、頭の中で必死に言い訳を考えていると、女性はラズベリーレッドの唇だけを動かしながらそう言ってきた。
私はビクビクしながら鈍く銀色に光る小さなコインを受け取った。
多分彼女は、仕事でそう尋ねてきただけなのだろう。
傍らに置いてあった紙に何やら書き込むと、女性は、まるで目の前に誰もいないかのように頬杖をついてしまった。
扉を開けると、そこはバーカウンターになっているようだった。
BGMにしては少し音量が大き過ぎるような気がしたけれど、「音の食堂」と似た年季の入った木製のカウンターに、私はホッと息をついた。
多分、受付で渡された銀色のコインを渡して、ドリンクを受け取れば良いのだろう。
私はカウンターの向こう側にいた男性にコインを差し出すと、「ジンジャーエールをお願いします」と声をかけた。
男性は良く見ると、小鼻の脇にキラリと輝く小ぶりのピアスをしていたけれど、カットオフにしたTシャツから覗く素肌にはタトゥーの跡は見当たらず、受付の女の子といい、ライブハウスに行ったら嘉成さんみたいな人がウジャウジャいると怖れていた私は、少し拍子抜けしてしまった。
ジンジャーエールを注いでもらっている間に、私はそっと辺りを見回してみる。
多分、カウンターの向かい側に造られている扉がフロアへの入り口になるのだろう。
「音の食堂」のものと似ている重そうな金属製の扉だ。
カウンター周りにも受付の辺りにも人がいないところを見ると、もうライブは始まっているようだ。
そう言えば、佑弦さんのバンドが何番目に出演するのか、何組出るのかも訊いてくるのを忘れてしまった。
何だか一人でいると心細くなってくる。
男性から淡い琥珀色の液体が入ったカップを受け取ってから、私は金属の扉に手をかけた。
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