アサリの中華スープと大切なもの ①

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 金属製の取手に触れた時から、汗ばむ手のひらを介して既にそれは伝わってきていた……。  そして扉を開けた瞬間、爆風とも言える音の圧に、思わず私はふらりとよろめいた。  それは鼓膜だけでなく、私の皮膚にも髪にも、そしてカップの中の薄茶色の液体にも強く重く突き刺さってくる。  思わず私が扉を開けたまま立ち尽くしていると、入り口近くで佇んでいた男性がこちらをギロリと睨んできた。  慌てて扉を閉めると、逃げ場を失った音の嵐は更に激しさを増してゆく。    そこは爆音と人々の発する熱気で過密状態だった。  そのような状態でよくも声が出せるな、と思うけれど、フロアを満たす人々は歓声を上げ、そしてリズムに合わせて体を揺すっていた。 「音の食堂」でも大きな音を出すバンドはいたけれど、桁が違っている。 「音の食堂」は狭いので、ギターやベースの音はアンプから出したそのままの音だけど、ライブハウスでは通常ミキサーという音のバランスを調整する機材を通してからスピーカーで鳴らしている、と佑弦さんが言っていた。  ステージの両脇に柱のように積み上げられている真っ黒いスピーカーから放たれるその音は、フロア全体を激しく振動させる。  フロアを満たす人の頭でステージの上は全く見えない。  今演奏しているのが一体誰なのか、ステージに何人いるのかもさっぱりわからない。    ふと、嵐のように吹き荒れる音の中に、聴き覚えのある低く優しい音が聴こえてきたような気がして、私は思わず耳を澄ませた。  その音は激しくリズムを刻みながらも、時折柔らかな響きで歌い上げる。  ボーカルが激しくシャウトする時も、ギターが華やかにフレーズを刻む時も、それは揺るぎない安定感をもって全体を支えているように思えた。  私は佑弦さんと他のベーシストを聴き比べてみた事はないし、そもそもがギターとベースの音をちゃんと聴きわける事もできない。  けれど、何故だかそれは佑弦さんの音だ、と思った。  ステージの隅の方で、長い前髪の奥の瞳が床を見据え、白く長い指先が激しく金属の弦を(はじ)ているのが見えるような気がした。  一際激しく掻き鳴らされたギターの音がゆっくりと消えてゆくと、ボーカルと思しき声がフロアに響いた。 「ども『N&G』です。今日はサポートで元『KIHOU』の佑弦にきて貰いました!」  彼の言葉と共に辺りから大きな拍手がおこる。  マイクの向こうから、何やらゴソゴソとしたやり取りが聞こえてきたあと、ボーカルは再びマイクを取った。 「……何だよ、少しぐらい喋れば良いのにな」  ボーカルの言葉に辺りから小さな笑いが起こる。  私も思わず「ふふっ」と小さな声を漏らしてしまった。  ステージの上で佑弦さんが全く表情を変える事なく、床の上をただ見つめているのが見えるような気がしたのだ。 「んじゃ、最後の曲いきます! ありがとうございました!」  叫ぶようなギターの音がスピーカーから弾き出されると、フロアはこぶし上げてそれに応えた。  辺りは再びむせ返るような熱気に包まれる。
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