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アサリの中華スープと大切なもの ②
はあっ、はあっ……。
強い力で引かれながら、私は荒い息を吐く。
立ち止まって息を整えたかったけれど、こんな時に限って、通りかかる信号はみんな青なのだ。
そして、目の前の広い背中から伝わってくる深い沈黙は、全ての事を頑なに拒否しているように思えて、声をかけるのが憚られてくる。
いつも飄々としていて何でもソツなくこなす佑弦さん。
けれど、本当は彼も心の奥底の方に、色々な想いを溜め込んでいたのかもしれない。
自分だけでは処理しきれない現実を抱えて「音の食堂」に引き寄せられてきた、心に傷を負った人間の一人だったのだろうか……。
響子さんが私にここに来るように言ったのは、佑弦さんに力を貸してあげて、という事なのかもしれない……。
でも、私には響子さんのように大きな心で支えてあげる事なんてできない。
何と声をかけたらいいのかすらもわからないのだ……。
そんな事を考えながら走っていると、気がついた時には目の前にブルーグレーの背中が迫っていた。
次の瞬間、顔面に衝撃が走る。
痛たたっ……。
私が鼻先を押さえながら、パーカーの背中を見上げると、佑弦さんも片手で膝を押さえながら荒い息を吐いている。
横断歩道の先では、ようやく巡ってきた停止の信号が、悠然と赤い光を放っていた。
サラリと溢れる黒髪の向こう側は、どんな表情をしているのかよく見えない。
色白の耳につけられたシルバーのピアスが、街の灯りを鈍く返しているだけだ。
そして薄く形の良い唇は、未だきゅっと閉ざされたままだ。
程なく後ろから人に押し出されるようにして、私達は信号が青に変わった事に気がついた。
何だか歩き難さを感じて自分の左手首を見てみると、まだ白い指で強く掴まれている。
ずっと走ってきたというのに、その綺麗な指先から伝わる体温は何だか冷え冷えとしていて、もっと下の方——、ふっくらと柔らかい手のひらを握り返してくれたらいいのにな、なんて馬鹿な事を考えてしまった。
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