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「……そんな時、よく演ってたライブハウスのオーナーから、響子さんの店で人を探しているから働いてみたらどうかって紹介されたんだ」
「あ、そっか……」
だから以前、佑弦さんは「音の食堂」で働くのをちょっと迷った、と言ったのか。
佑弦さんの原点とも言えるサウノイ。
そして望さんという存在。
その二つが自分の中で揺らいでしまっている時に、奏一郎さんの奥さんである響子さんの下で働くのは、佑弦さんにとって勇気のいる事だったのだろう。
でもだからこそ、そのオーナーの人も響子さんも、佑弦さんにそれを勧めたのかもしれない。
「『音の食堂』でライブ演ってる人達は、何つーか、みんな呼吸するみたいに自然に、それでいて全力で音を出してて、すげーな、って思ったんだ」
「うん。今、この時、この場所がどうしたら最高のものになるか、って事にだけ集中してる感じがする」
佑弦さんは私の言葉に小さく頷いてみせた。
「一緒に演らせてもらって楽しかったし勉強にもなった。けど、そのまんま自分に当てはめるのは違うかな、とも思ったんだ。そしたらまた物真似になっちまう。サウノイの真似をしてた頃の俺みたいに……」
「それ、ちょっとだけわかる気がする。私は響子さんのシンプルな生活に憧れてた。これからは、目の前にある事だけを大切にしながら響子さんみたいに生きていくんだ、って。でも……、私は響子さんじゃなかった。色々グジグジと悩みながらフラフラ迷いながら生きていくのが私だった。……嫌だけど、しょうがない。それが自分だから」
「そ、……だな」
佑弦さんはそう言って、艶のある薄い唇を僅かに緩めてみせた。
世の中には『反シノハラフード』みたいな生き方があって、シンプルに目の前の事に向き合っていれば自然と『自分の生き方』が見えてくるのかと思ってた。
でも本当は決まった答えなんかないのかもしれない。
「私は響子さんみたく真っ直ぐには生きられない。多分、私はまた悩んだり回り道を進んでいったりするかもしれない。でもその瞬間、『何かを犠牲にしてでも大切にしたい』って思った気持ちだけは本物なんだと思う。だから、今は響子さんと……」
私は、前髪の奥で儚げに揺れる大きな瞳をしっかりと見据えながら続けた。
「佑弦さんの事を大切にして生きていきたいと思っています。たとえそれが誰かを傷つける事があるのだとしても……」
フワリと夜の風が長い前髪を揺らしてゆくと、その奥にあった二重の目が更に大きく開かれた。
湖のような深さを湛えたその黒が見つめているのは、伝説のミュージシャンでも、新進気鋭のアーティストでもない。
フラフラと迷いながら生きている26歳のただの女。
それでも、私は佑弦さんを支えていきたいと思った。
彼自身もまだ気づいていない、その深い黒の奥底で静かに燃える情熱を、優しくも力強く歌い上げる彼の音の可能性を信じたい、と。
僅かに潤んだ瞳は、私を見つめ返しながら彼の想いを表すように小さく揺れる。
そして、それがゆっくりアスファルトに向けられると、形の良い唇がほんの少しだけ開かれた。
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