アサリの中華スープと大切なもの ③

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「ちっ、まだいやがる」  佑弦さんは通りの向こう側にある自販機を睨みつけながら、苛立たしげに舌打ちをした。 「琴音、本当に良いんだな?」  私は佑弦さんの言葉にコクコクと頷いてみせた。 「俺は基本平和主義者なんだけど……。嘉成の真似でもしてみるか」  そう言うと、佑弦さんは自販機に向かって真っ直ぐに歩き始めた。  自販機と向かいの店の壁の間に体を潜めていた翔真は、私達の姿を認めると、慌ててスマホを見ている振りをし始めた。 「おいお前、琴音にちょっかい出すの、やめてもらおうか」  佑弦さんの鋭い眼差しが、街の灯りを返してギラリと怪しげに輝く。 「な、何言ってるんですか? 俺はただスマホを見てるだけで……」  そう言う翔真のスマホはロック画面のままだ。    ツンと尖った顎を少し持ち上げると、佑弦さんは二重の瞼を細めながら不機そうに翔真の事を睨み据えた。 「こ、琴音、何なんだよコイツ」  翔真は助けを求めるように私の方に視線を向けてくる。  それを避けるように、私は佑弦さんの大きな背中にサッと隠れた。 「琴音、お前コイツに騙されてんだよ」 「騙してたのはお前だろうが」 「そ、それは……」 「コイツに手ぇ出す、って事はわかってんだよな? バックに『瀬尾組』がついてる俺を敵に回すって事だぜ?」  瀬尾……組?  凄みを利かせる佑弦さんにビビりまくっている翔真は、必死に笑いを堪えている私の様子には気づかない。  落ち着きなく視線を動かしながら翔真は、ジリジリと後ろに下がっていく。   「こ、琴音、後悔したって知らないからな!」  そして充分な距離を取ってから、翔真は捨て台詞を吐くと、人混みの中へと消えて行ってしまった。 「フハハハハ!」  その後ろ姿を見つめながら、佑弦さんは勝利を収めた後のヒーローのような笑い声を上げた。 「佑弦さん。ありがとう。……嬉しかった」  私は佑弦さんの前に回り込むと、思わずブルーグレーのパーカーの袖口を掴んだ。  佑弦さんは驚いたように大きな目を更に見開いてみせた。  さっきまで射抜くような光を放っていたその瞳には、戸惑いと驚きと、あとは形容のし難い特別な色が浮かんでいる。  それは紛れもなく、鋭利さという鎧を脱いだ素の佑弦さんのものだったけれど、望さんの事を語っていた時のような切ないものは含んでいない。  そして、果音ちゃんの前で見せていたものともまた違う……。  本当は暖かくて優しくて、純粋だけど不器用で、そして変わっていく事に少し臆病な、佑弦さんの心の音色が聴こえてくるような気がした。  初めて見せてくれたその表情に、私は嬉しくなって、思わずパーカーの袖の下に隠されていた綺麗な指先に触れる。  そのひんやりとした肌は一瞬ピクリと反応を示したけれど、拒む事なく私の指先を受け入れてくれた。  すると、陶器のように艶やかな頬に一瞬、赤いものがさしたかに見えた。 「えっ?」  私が覗き込むと、その僅かな頬の赤みは、みるみるうちに顔全体に広がっていく。 「ええっ?」  私が驚いて佑弦さんの顔を更に覗き込もうとすると、佑弦さんは後ろを向いてしまう。  私がもう一度覗き込もうとすると、佑弦さんも又顔を背けるので、私達は自転する地球とその周りを回る月のようにクルクルと回り出した。  だけど佑弦さん。サラサラと揺れる黒髪の間から覗く少し尖り気味の耳が真っ赤なのが丸見えだよ。    私は何だか嬉しくなって、更に佑弦さんを追いかけ続ける。 「……誰かを傷つけてでも大切にしたいもの、みつけたかも……」  照れたような佑弦さんの低い声が、心地よく耳に届く。  その後も私達は、夜の街で暫くの間クルクルと回り続けていた。  
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