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「琴音さん、この間はありがとうございました」
佑弦さんがフロアに消えてゆくと、智樹君と仲良く手を繋いだ果音ちゃんが声をかけてくる。
良かった。智樹君とちゃんと仲直りできたみたい。
「あの時は……果音の事なのにずっと内緒にされてて……、何か信用されてないみたいな、子供扱いされてるみたいな気がして、ショックだったの」
「そっか……」
「結果的にそれが良かったのか悪かったのかはまだわからないけど……、みんな果音の事を一生懸命考えてくれてたんだ、って事だけは理解できた」
「うん。響子さんも、そして果音ちゃんのご両親も、果音ちゃんの事本当に大事に思ってるんだよ」
「なんて……。全部智君に言われたから気づいたんだけどね。あの時はとにかく『響子さんに裏切られた』って思ってた」
果音ちゃんが「ねっ?」と大きなクリクリとした瞳で見つめると、智樹君は頭をポリポリとかいてみせた。
「……何もかも今まで通り、って訳にはいかないけど、果音にとって『お母さん』は果音のお母さんだけだし、響子さんは大事な『叔母さん』で、それ以上でもそれ以下でもないの」
響子さんに良く似た黒い瞳を柔らかく揺らしながら、果音ちゃんは微笑んだ。
果音ちゃんならば大丈夫。
そう思った。
自分の出生がどうであれ、きっと果音ちゃんなら自分の大切なものを見失う事なく、真っ直ぐに生きていけるだろう。
響子さんのように……。
「あの……、こちらこそどうもありがとう」
私はカウンターの上にゆっくりと視線を落としながらそう言った。
なんだかんだ言って、あの日果音ちゃんがお店を出る間際に言葉をかけてくれたから、私はライブにも顔を出せた気がする。
きっと私の事だから、ぐるぐると色々な事を考え過ぎて、佑弦さんのライブを観に行ったりなんてできなかっただろうと思う。
『琴音さん、あのね……。神社では、佑弦さんに響子さんの事を相談してただけだから』
そして最後、意味あり気に添えられた『頑張ってね』の言葉。
二人が神社で話しているところを、こっそり覗いていたのがバレていた事も、私が佑弦さんを意識しているのを果音ちゃんが知っていた事も、年下の彼女に「頑張って」なんて言われた事も、全部恥ずかしかったけれど……。
「あ、そうなんですね。おめでとうございます!」
果音ちゃんはその小さな顔に、屈託のない笑顔を浮かべてみせる。
「えっ、まだ、そこまででは……」
「おい、サボってんじゃねーぞ」
私が果音ちゃんの言葉に、思わず下を向いてモジモジしていると、客席から戻ってきた佑弦さんが声をかけてくる。
「佑弦さん、良かったね!」
果音ちゃんが、照れている私と佑弦さんの顔を見比べながら無邪気な笑顔を向けると、その陶器のような頬にぽっと赤みが差した。
「な、何言って……」
「もう、二人して照れてないでちゃんと仕事してくださいよー。果音と智君にジンジャエール、二つ」
果音ちゃんの言葉に、冷蔵庫を開けて緑色の瓶を取り出すと、火照った手のひらによく冷えたそれが心地良かった。
ふと視線を上げると、長い前髪の間から覗く佑弦さんの柔らかい眼差しと優しく絡み合う。
それはもう、初めて会った時のように相手を射るような光は纏っていなくて、どこまでも吸い込まれていきそうな優しい黒。
「佑弦さんもありがとう。ちゃんと『ごめんなさい』って言えたら、智君と仲直りできたよ」
そう言って視線を直ぐ隣に向けると、智樹君は照れたようにペコリと頭を下げる。
そして、カウンターの上に2本のジンジャエールをコトリと置くと、私が声をかける間もなく、智樹君はその緑色の瓶を煽ってみせた。
「……ゲホッ、ゲホッ」
「智君、大丈夫?」
盛大にむせている智樹君の背中を、果音ちゃんが優しくさする。
「ブハハハハッ」
二人の様子を眺めながら、佑弦さんは楽しそうな声を上げた。
佑弦さん、お客さんに向かってそれはマズイと思うな……。
響ヶ町の駅前繁華街のちょうど外れ、見落としてしまいそうな細く暗い階段のその先では、今日もほっこり暖かいスープご飯と癒されない音楽が、心に傷を負った人々に、優しく、そして適度な距離感をもって寄り添ってくれている……。
〈完〉
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