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梅とアサリのスープとクズ男 ③
私は自分部屋の鍵をカチリと廻すと、大きく息を吐いた。
寝不足の為、頭がぼーっとするけれど、その方が都合が良いのかもしれない。色々と考え過ぎない方が、嫌な事も思い出さずに済む。
そう、今日は久しぶりに翔真と住んでいたあのアパートへ行く予定なのだ。
ここで生活する為に必要な物は一通り買い揃えた。
それでも、通帳だとか、どうしてもあのアパートに取りに行かなければならない物があったのだ。
大丈夫。今日は水曜日だから、翔真は仕事でアパートにはいない筈。
私は自分にそう言い聞かせてから、ゆっくりと歩き出した。
冷んやりとした朝の空気の中を、アパートの階段を降りるカンカンという音が静かに響いていく。
コンクリートの地面に足をつける瞬間、私は小さくため息をついた。
階段の脇に佑弦さんが立っているのを見つけてしまったのだ。
こんな日には会いたくなかった。
朝から毒づかれでもしたら、あのアパートに向かう勇気も消え去ってしまいそうだった。
「おはようございます」
私はなるべく彼と目を合わせないようにしながらそう言うと、そのまま歩き去ろうとした。
「昔のアパートに行くんだろ?」
彼の言葉に私は思わず立ち止まって振り返る。
冷ややかな風が彼の前髪をサラリと巻上げていった。
その黒く大きな瞳からは、いつものように、人を馬鹿にしている様子は見受けられない。
「……そうだけど……」
「響子さんから頼まれた。荷物、持ってやるよ」
「……荷物はそんなに無いから」
それは嘘じゃなかった。
あの家にある物なんて本当は何一つ持ち出したくはない。
持って来るのはどうしても必要な物だけにして、後は全部処分するつもりだった。
あの女がいた部屋にあった物なんて、みんな捨てようと思っていた。お気に入りのワンピも、「クラフト少年」のCDすらも……。
吸い込まれそうな深い瞳が私をじっと見つめる。
「一人で大丈夫なの?」
「う……」
確かに自信はなかった。今日の事を考えると、ずっと胃が痛かったし、昨日は殆ど眠れなかったのだ。
鋭い光を宿した黒い瞳が、更に私を覗き込む。
心が、熱を加えられた飴細工のようにぐにゃりと折れ曲がった気がした。
「……お願いします」
私は俯きながらそう小さく呟いた。
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