梅とアサリのスープとクズ男 ③

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 部屋の中はなんだかモアっとしていて、空気が淀んでいた。  キッチンには食べ終わった後の弁当等のゴミが散乱している。  翔真は片付けが苦手だ。  彼が休みの日には部屋があっという間にゴミ屋敷のようになってしまい、私は遅くに仕事から帰った後も、自分の休みの日もずっと片付けに追われていた。  部屋を綺麗にしなくちゃ。手作りの料理を食べさせなくちゃ。  私は何だか義務のように毎日必死でそれらをこなしてきた。  けれど、もしかしたら翔真はそんな事を特に望んでいた訳ではないのかもしれない……。    私が投げつけたケーキの箱はさすがに片付けてあったけれど、薄っすらと床にクリームの跡が付いていた。  寝室のドアを前にして、私はもう一度大きく息を吸い込んだ。  鼻腔の奥を生ゴミの臭いが刺激してきて少しむせてしまった。  ゆっくりと扉を開くと、寝乱れたベッドが目に入ってきて、私は一瞬たじろいだ。  あの時の下着姿の女が瞼の裏に蘇ってきて、思わず私は近くにあったハンガーラックに寄りかかる。 「ひゅっ……!」  瞬間、私は喉の方から声にならない息を吐き出しながら、思わず飛び退いた。  そこには、見慣れないピンク色のカーディガンがあったのだ。  私がいつもコートをかけていた木製のハンガーに……。  よく見ると脱ぎ捨てられた翔真のパジャマの直ぐ脇にには、私の物ではない花柄のパジャマも一緒に転がっていた。  私は目の前に見えている物を振り払うかのように、首を横に振りながら後ずさる。  キッチンの床に転がっていたレジ袋を踏みつけてしまい、中に入っていた空のお弁当のパックがバリリと音を立てる。  ビクリとして顔を上げると、ハートマークの描かれたピンクと水色、見た事のない二つのカップが水切りカゴに伏せられているのが視界に入ってきた。  それらにはまだ水滴が残っていて、ゴミ屋敷のように汚い部屋の中で、そこだけが純粋な様子をアピールしているかのように見えた。  こんな部屋の空気、1mlだって吸いたくはなかった。  けれど、私の体は気持ちに反して喘ぐようにして汚い空気を吸い込んでいく。  嫌だ嫌だ嫌だ……。  吸いたくない。見たくない。考えたくない……。   「はあっ、はあっ……」  脳の命令に反して、私はそこから動く事もできず、汚れた空気を肺に送り続けていく。  あの女がどこかで馬鹿な私の事を嘲笑っているような気がした。  あの女だけじゃない。翔真も、課長も、突然いなくなった大塚農場の前任者も……。  汚らわしい空気が肺を伝わって、全身の細胞まで運ばれていくようだった。  お前は馬鹿だ。無能だ。女としての価値もない、と。  私の細胞自体が自分自身を責め立てる。 「はあっ、はあっ……」  苦しい……。  息を吸っている筈なのに、吸えば吸うほど苦しくなっていく。  今までにも何回かあった……。  ストレスが溜まった時とか、色々な思いを溜め込んでしまった時とか……。  過呼吸にはビニール袋を口にあてがうと良いと聞いた事がある……。  レジ袋は周りに沢山転がっているけれど、この部屋にある物を口に持っていくなんてあり得なかった。  視界に入るのさえ疎ましいのに、触るなんて絶対に嫌だ。  足の裏が床に接しているのさえ不快だった。  そうだ、ほうじ茶。ほうじ茶を飲んで落ち着かなければ……。  私は急いで肩にかけていたトートバッグに手をかける。  けれど指先が痙攣してしまって上手くいかない。  早く……、早くほうじ茶を飲まなくちゃ……。  焦れば焦るほど指先が硬直していく。  全ての指が強く折り畳まったまま開く事ができない。  ペットボトルを取り出そうと手の平で無理矢理引っ張ると、バッグは肩から外れ、床の上で大きな音を立てた。  ゴミで散らかる床の上に鞄の中身が無惨に飛び散っていく。  そして、ほうじ茶は汚れたフローリングの上を、ゴロゴロと転がっていってしまった。  ああ、駄目だ……。  体から力が抜けていく。  気がつくと、クリームを乱暴に拭い去った跡のある茶色い木の床が直ぐ目の前に迫っていた。  嫌だ嫌だ嫌だ……。  必死に体を起こそうとしてみても、私の重い体はどうしても持ち上がらなかった……。
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