カレースープとNo.30 ①

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カレースープとNo.30 ①

「課長、来月一杯でシノハラフードを辞めさせて下さい!」  いつものように私に資料作成を押しつけて昼食に出ようとしていた課長に、私は思い切って声をかけた。  一瞬周りがシンとなるのがわかる。  課長が小さな目を精一杯見開きながら振り向いた。 「……寿退社か?」 「いいえ」 「あ……、えーと、すまん」 「他にやりたい事ができたからです」  私の言葉に課長の目が更に見開かれる。  いつも言いなりだった私からの思いがけないセリフに、周りの同僚達も驚いているようだった。  厳密にいうと「やりたい事を見つけたくなった」からだ。  今思っている事を大切にしていけば、きっと私が本当にやりたい事が見えてくる、そんな気がしていた。 「……あの、いつも相手の顔色を窺いながらオドオドしていた木原が、やりたい事か……」  課長は散らかった自分のデスクの上に視線を落とすと、薄くなり始めた頭をポリポリとかいた。 「俺も歳取る訳だよなぁ……。まあ、頑張れよ」  そう言って課長は私の肩をポンッと叩いた。 「えっ?」  今度は私が驚く番だった。  絶対嫌味を言われるか、何やかやと、うやむやにされるんじゃないかと思っていた。  ……もしかしたら、壁を作っていたのは私の方だったのかもしれない。 「あ、肩なんて触ったらセクハラだって言われちゃうか。歳取るのは嫌だねぇ」  課長はそう言ってハハハと笑った。   「琴音さん、やっと課長さんに辞職を伝えられたんですね。良かったですね」  響子さんがお玉を傾けると、ふわりと湯気の立つ美味しそうなスープがどんぶりに注がれていく。 「やっとかよ、琴音はトロ過ぎんだよ。もうすぐ研修終わりだろ? しっかりしてくれよな」  背後からかけられた佑弦さんの余分な一言に、私は口を尖らせた。 「また佑弦君は意地悪な事ばっかり。琴音さんにも色々と仕事があるんですから、そう簡単にはいかないんですよ」  佑弦さんはスープご飯のどんぶりをトレーに載せると、素早く客席まで運んでいく。  佑弦さんの言い方にはムカついたけれど、確かにしっかりしなくては、と思う。  私の「音の食堂」での研修期間がもうすぐ終わる。  そうするとホールを一人で切り盛りしなければならなくなるのだ。  初めのうちは佑弦さんと一緒のシフトは気が重かったけれど、独り立ちとなるとちょっと寂しかったりもする。 「琴音、お客様だ。ぼーっとしてないでお客様が入って来たら直ぐ気づくように」  いつの間にか客席から戻ってきていた佑弦さんが私の頭をポンっと叩く。  私は佑弦さんに抗議の眼差しを向けてみせてから、入り口の方へ笑顔を向けた。 「いらっしゃいませ」  会社帰りだろうか、スーツ姿の一組の男女が楽しそうに声を弾ませながら店内に入ってきた。
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