126人が本棚に入れています
本棚に追加
/167ページ
井上さんが右手を小さく動かすと、ポロンと弦を弾く柔らかな音がフロアに小さく響いた。
大正琴は、卓上に乗せられるくらいの小型の琴の一種で、右手で弦を弾き、左側にある白と黒のボタンを押す事によってピアノを弾くように音階を奏でていく事ができる楽器だ。
ボタンを押せば弾きたい音が出るし、長さが60センチ位と小型なので、手軽さからか昔流行ったらしい。
彼女の奏でる音は当然、お婆ちゃんの弾くようなぎこちないものではなかったけれど、どこか懐かしいような心地よい響きをもっていた。
柔らかなメロディーがワンフレーズ流れたところで、彼女が四角い機械のツマミを捻った。
彼女の奏でた音が同じように繰り返され、やまびこみたいに重なっていく。
後から後から打ち寄せる波のように音の流れが重なり合い、狭い店内を満たしていった。
彼女がまた別のツマミをいじると、少し割れたような音に変化する。
僅かにノイズを含むその音は、予め決められた音階を奏でている訳ではないようだった。
音色だけでなく、メロディーやリズムすらも常に変化していて、それらは全てその皺が刻まれた細い指先に委ねられていた。
彼女の音を縛るものは何もない。
その音は全ての概念から解き放たれ、あらゆるものから自由だった。
唯一ルールがあるとすれば、それは彼女自身。
右手で激しく弦をかき鳴らすと、既存の形に囚われない音の粒達が繰り出され、残響と重なってゆく。
彼女は大正琴とは思えないほど、激しく弦を弾き、時には指の腹で叩き、弦を直接押さえてミュートさせた。
四角い箱を通して発せられるその音は、琴の音色とは思えないような多彩なものに変化していたけれど、どこか郷愁のある響きはギターのそれとはどこか違って聞こえる。
彼女の年齢は多分私の母よりもちょっと上だろう。
そのくらいの歳の人がこんな前衛的な音楽をやっているなんて、ちょっと意外だった。
けれど、ただ奇抜な事をやってみせているという訳ではないような思えた。
彼女の繰り出す音は、大正琴を介して彼女自身から発せられたものであり、小手先だけではないリアリティを持っていて、私の鼓膜、皮膚や髪、自分の内にある何かまで深く振動させた。
小さな大正琴から紡ぎ出された最後の音の粒が、白く塗られた古い壁や使い込まれて艶を放つ木製のカウンターに跳ね返され、ゆっくりと床の上に落ちてゆくと、パチパチとまばらな拍手がおこる。
気がつくと、手にしていたビールはすっかり温くなっていて、少し厚みのあるガラスの容器の中で静かに揺れていた。
褐色の液体の入ったグラスを傾けると、すっかり気の抜けたアルコールが、まだ余韻の残る喉元をトロリと潤していく。
最初のコメントを投稿しよう!