カレースープとNo.30 ④

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 井上さんが右手を小さく動かすと、ポロンと弦を(はじ)く柔らかな音がフロアに小さく響いた。  大正琴は、卓上に乗せられるくらいの小型の琴の一種で、右手で弦を(はじ)き、左側にある白と黒のボタンを押す事によってピアノを()くように音階を奏でていく事ができる楽器だ。  ボタンを押せば弾きたい音が出るし、長さが60センチ位と小型なので、手軽さからか昔流行ったらしい。  彼女の奏でる音は当然、お婆ちゃんの弾くようなぎこちないものではなかったけれど、どこか懐かしいような心地よい響きをもっていた。  柔らかなメロディーがワンフレーズ流れたところで、彼女が四角い機械のツマミを捻った。  彼女の奏でた音が同じように繰り返され、やまびこみたいに重なっていく。  後から後から打ち寄せる波のように音の流れが重なり合い、狭い店内を満たしていった。  彼女がまた別のツマミをいじると、少し割れたような音に変化する。  僅かにノイズを含むその音は、予め決められた音階を奏でている訳ではないようだった。  音色だけでなく、メロディーやリズムすらも常に変化していて、それらは全てその皺が刻まれた細い指先に委ねられていた。  彼女の音を縛るものは何もない。  その音は全ての概念から解き放たれ、あらゆるものから自由だった。  唯一ルールがあるとすれば、それは彼女自身。    右手で激しく弦をかき鳴らすと、既存の形に囚われない音の粒達が繰り出され、残響と重なってゆく。  彼女は大正琴とは思えないほど、激しく弦を(はじ)き、時には指の腹で叩き、弦を直接押さえてミュートさせた。    四角い箱を通して発せられるその音は、琴の音色とは思えないような多彩なものに変化していたけれど、どこか郷愁のある響きはギターのそれとはどこか違って聞こえる。  彼女の年齢は多分私の母よりもちょっと上だろう。  そのくらいの歳の人がこんな前衛的な音楽をやっているなんて、ちょっと意外だった。  けれど、ただ奇抜な事をやってみせているという訳ではないような思えた。  彼女の繰り出す音は、大正琴を介して彼女自身から発せられたものであり、小手先だけではないリアリティを持っていて、私の鼓膜、皮膚や髪、自分の内にある何かまで深く振動させた。  小さな大正琴から紡ぎ出された最後の音の粒が、白く塗られた古い壁や使い込まれて艶を放つ木製のカウンターに跳ね返され、ゆっくりと床の上に落ちてゆくと、パチパチとまばらな拍手がおこる。  気がつくと、手にしていたビールはすっかり温くなっていて、少し厚みのあるガラスの容器の中で静かに揺れていた。  褐色の液体の入ったグラスを傾けると、すっかり気の抜けたアルコールが、まだ余韻の残る喉元をトロリと潤していく。
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