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「それじゃ、一杯奢るわ。途中から来たから、杉野さんのライブも田口さんのも観てないでしょう? 凄く良いから次回はぜひ」
「はい。今度はゆっくり拝見させて頂きます」
私が遠慮なくハイボールを注文させて貰っていると、ふわりとスパイシーな香りが鼻をくすぐった。
「カレースープご飯、おまたせ致しました」
男性店員の声に、私は井上さんに丁寧にお礼を言うと、カウンターの奥の席に移動する。
この間と同じ、ナチュラルな木製のトレーの上に真っ白な小どんぶりが乗っている。
どんぶりと同じ素材でできたレンゲでそれを掬ってみると、立ち昇るスパイシーな湯気に私のお腹がぐうと鳴った。
俊介にどうしても「一口ちょうだい」と言えなかったカレースープご飯は、どこかホッとするような、懐かしい味がした。
チキンベースによく煮込まれた野菜の甘みも感じるスープは、それだけで充分美味しくて、カレーではなくスープが主役だという事が良くわかる。
スープに広がる豊かな旨味を邪魔しないよう、スパイスはバランス良くマイルドにブレンドされていて、その刺激がスープの深い味わいを更に引き立てていた。
私の体は既にアルコールで適度に温まってはいたけれど、カレースープご飯は、私の凝り固まった心を程良く刺激しながら、芯の方までジワジワと温めていってくれた。
色々な事を悟ったような気がしていたけれど、私が生きてきたのはたかが30年。
今まで積み上げてきた事を一瞬で失ってしまうかもしれないと怖れてきたけれど、俊介と出会ってからはたった8年だ。
それよりも大事な事を忘れていたような気がした。
私はカレースープを最後の一滴まで飲み干すと、「ご馳走様」と店主に向かって声をかけた。
ガラスのはめ込まれた木製の扉を静かに開けると、身を震わすような外の空気がコートの内側まで一気に入り込んできて、私は思わず自分の腕を抱きしめる。
狭い階段を上っていくと、1階にあるカフェの灯りはもう落とされていて、ガラス張りの店内で従業員達が片付けを始めているのが見えた。
通りを吹き抜けてくる乾いた風が、扉に張り付けられていたお知らせの紙をペラリと巻き上げて過ぎ去っていった。
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