チキンライスとモブ男 ②

7/7

126人が本棚に入れています
本棚に追加
/167ページ
美玖(みく)ちゃんのお兄ちゃんキモーい」  2階の僕の部屋の方から、甲高い声が聞こえてきた。 「でしょう。毎日アニメばっか見てるんだよ」  馬鹿にしたような妹の美玖の声も聞こえる。 「キャー触っちゃった。オタクがうつるー。手洗わなきゃー」  バタバタと階段を駆け下りてくる音に、僕はランドセルを背負ったまま慌ててキッチンに逃げ込んだ。  僕の部屋には「美少女戦隊フローリアン」のポスターが貼ってある。  フィギュアもそれぞれの必殺技を決めたポージングで並べてある。  僕は息をひそめてドアの向こうの様子を窺った。  僕が何か悪い事をした訳でも何でもないのに……。  勝手に人の部屋を覗いたのは、妹達の方なのに……。  そう思いながらも、何故だか僕は妹達に声をかける事ができないでいたのだ。  ただただ、大きなダイニングテーブルの上にあるガラスの花瓶を睨みつけたまま……。  心臓がバクバクと激しく鳴り、いつの間にか握りしめていた手のひらがジットリと汗ばんでいく。  きゃあきゃあと言いながら再び階段を上がって行く妹達の声が、どこか遠くの方に聞こえた。  花瓶に生けられていた色鮮やかなバラの花が、何だかボンヤリと滲んで見えてくる。  キモい、キモい、キモい……。  淡く滲んだ色とりどりの花が、そう呟きながら目の前に迫ってくるようだ。  匂い立つような花の香りが僕を責めたてる。  僕は艶かしい色香を放ってくるそれらを追い払うように、腕を振り払った……。    気がつくと、目の前で吊り革につかまる女性が怪訝そうな顔をしてこちらを見下ろしていた。  僕は寝ぼけた瞼を擦りながら、彼女から視線を逸らす。  電車がガタリと揺れると、隣りでユラユラと船を漕いでいた女性が僕の方に寄りかかってくる。  ふわりと香る甘い匂いに、僕は思わず腕を引いた。  いつまでも昔の事に囚われているなんて馬鹿みたいだ。  そんな事はわかっている。  でも、母親以外の女の人に話しかけられると、身がすくんで、体が思うように動かせなくなるのだ。  一つ下の妹は、昔から自己中心的で我儘で、何かあると直ぐ泣き喚いた。  あれ以来彼女とはほとんど口をきいていない。  そして僕は彼女と距離を置く為に、大学進学と同時に家を出た。  けれど、大学でも社会に出ても、周りにいる女の子は妹みたいに自己主張の強い子ばかりだった。  でも、僕だって女性に興味がない訳ではない。  アニメの中とかアイドルとか、僕に危害を加えない女の子は大丈夫だった。  そんな時、会社帰りにふらりと立ち寄ったコンビニで出会ったのが、「しみず」さんだった。  彼女は小汚い作業着を着たおっさんにも、ホストのようなニヤけた男にも、分け隔てなく清らかな笑顔を向けていた。  彼女の笑顔は、取って付けたような——俗に言う営業スマイルでは決してなかった。  それは意識的に作り出したものではなく、彼女の内面から自然に湧き出しているように見えた。  彼女の胸につけられている「しみず」という名札を見て、僕は正に清らかに澄んだ湧水のようだ、と思った。  それから僕は「しみず」さんのいるコンビニに通うようになったのだ。  彼女から「ありがとうございます」と笑顔を向けられながら品物を受け取って、後はガラス越しに彼女の姿を眺めていれば充分だった。    そして、今日も僕はパンとサラダと酎ハイを買いにコンビニへ向かう。  その後は……。  気が付くと僕は再び「音の食堂」へ足を向けていた。 「音の食堂」の、相手を拒まず、そして危害を加えない、適度な距離感が何だかとても心地良かったのだ。
/167ページ

最初のコメントを投稿しよう!

126人が本棚に入れています
本棚に追加