チキンライスとモブ男 ④

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チキンライスとモブ男 ④

「……じゃあ、渡辺君はこっちね」  吉野課長がいつものようにキビキビと、その場を仕切っていく。  仕事の疲れと煩わしさを引きずったまま、僕はのそのそと指示されたぺちゃんこの座布団に腰を下ろした。  杉野さんが皆んなの脱いだコートを受け取ると、壁に下げられていたハンガーに一つ一つかけていく。  他の女子達も脱いだ靴を片付けたり、乾杯のビールの準備をしたり、忙しそうだ。  新人の伊藤君もにこやかにビールの準備を手伝っている。  僕は何となく、目の前にあったカセットコンロのスイッチをゆっくりと捻った。  シュボっという音と共に焦げ跡の残る土鍋の下に青い火が点る。  社員達が忙しなく動き回る度に、炎の先はチロチロと僅かに揺らぐ。  そう、今日は統括管理課の新年会なのだ。  僕は女子じゃなくても、大勢でワイワイと騒ぐのは苦手だ。  お酒は嫌いじゃないけど、一人で家で飲んだ方がゆっくりと味わえる。 「で、杉野さんは渡辺君の隣りね」  吉野課長の声に、杉野さんは伊藤君のコートをハンガーにかけながら、ちょっと迷惑そうに顔を曇らせた。  杉野さんは多分、伊藤君の事が好きなんだ。  仕事中も良くパソコンの陰からチラチラと盗み見ているのを、僕は知っている。 「渡辺君もこういう時ぐらい女子と羽を伸ばしなさいよね」  吉野課長はそう囁くと僕の肩をバシンと叩いた。  正直、僕にとってはありがた迷惑だった。  男なら誰でも女子と話したがってると思ったら、大間違いだ。  僕は「しみず」さん以外の女子となんて別に話したくもないのだ。  しかも今日は「しみず」さんがシフトに入っている金曜日。  新年会が終わってから駆けつければ間に合うから、それまでの辛抱だ。 「……渡辺さんの趣味って何ですか?」 「……特にないかな……」  杉野さんが、吉野課長の命にに従い僕に一所懸命話しかけてくるけれど、僕が返すのは一言二言で、話は続かない。  まさか「趣味は『しみず』さんの働く姿を眺める事です」なんて言う訳にもいかないし……。  響子さんのお陰で、女子と話す時に心拍数が急上昇するような事はあまりなくなったけれど、女子と話すのが苦手な事には変わりなかった。  僕はこの後「しみず」さんに会う為に精神力を残しておかなくちゃならない。  杉野さんには悪いけど、ここで気力を使い果たしてしまう訳にはいかないのだ。  杉野さんは暫くすると、「お酌をしに行く」という役割を果たすべく、静かに席を離れていった。 「あー、ワタナベー、何一人でまったり飲んでんだ」    僕が一人、良い感じに煮詰まってグスグスになった寄せ鍋の残りを肴に、手酌でビールのグラスを傾けていると、隣りのテーブルから吉野課長の声が飛んできた。  その細い腕のどこにそんな力があるのか、と思うような力でワイシャツの襟を引っ張り上げられると、隣りのテーブルまで連れて行かれる。   「せっかく女子の隣りにしてあげたのに、ワタナベはダメだなー」  そう言って大きな口を開けてガハハと笑う吉野課長は、何だかおっさんのようだった。
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