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気がつくと僕は「音の食堂」の薄暗い階段の前に立っていた。
もうお腹は一杯だったけど、このまま家に帰る気にはなれない……。
とにかく、あの暖かい空気に包まれたい、響子さんに優しく笑いかけられたい、僕はそう思っていた。
狭くて急な階段をゆっくりと下りてから、煤けたガラスの窓がついたドアを押し開ける。
そしてもう一枚の重い扉を開けようと手を伸ばすと、いつもは「営業中」とだけ書かれたプレートが下げられている場所に、沢山の文字が書かれた少し大きめのプレートがかけられている事に気がついた。
何だか少し気にはなったけれど、そんな事はどうでも良い事だ……。
僕は黒い扉に体重をかけた。
「いらっしゃいませ」
僕をまず出迎えてくれたのは、この間もいたアルバイト店員リッスーだった。
キッチンに視線を向けると……、いつも響子さんがいる筈の場所に、今日は何故だか無愛想なイケメン店員が立っていた。
まさか、響子さんはお休みなんだろうか……。
「……今はライブ営業中なので、ミュージックチャージ料とワンドリンク代がかかってしまいますがよろしいですか?」
そう言って、リッスーは何だか申し訳なさそうな表情を浮かべる。
「へえ、ライブ……」
ミュージックチャージ料ぐらいならば別に払っても構わなかったけど、響子さんがいないのなら、帰ろうかな……。
けれど、僕が引き返そうとすると、彼女は何やら嬉しそうな顔を向けてくる。
「……お客さん、今日も当たりの日ですよ。今から響子さんのステージなんです」
「えっ? 響子さんが? ステージ?」
僕は思わず彼女の小動物みたいな黒い目を見返した。
リッスーはクリクリとした目を細めながら、嬉しそうにウンウンと頷いてみせる。
確かに店内を覗いてみると、お客さんの殆どが立っていて、皆んな入って直ぐ左手辺りに視線を向けている。
「音の食堂」の1枚目の木の扉と2枚目の重い扉の間にはトイレがあり、その奥行きの分だけ、店内側に中途半端なスペースができている。
そしてそこの余分な部分の床だけが黒く塗られていて、いつも何だろう、と思っていたのだ。
特にそこだけ高くなっている、という訳でもなく、ステージといっても簡単な物のようだ。
ライブといっても、穏やかな生演奏を聴きながらお酒も楽しめる、そんな感じなのだろう。
けれど、あの響子さんの演奏となれば聴かない訳にはいかない。
僕はポケットからお財布を出すと、ミュージックチャージ料とドリンク代をリッスーに支払った。
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