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スープご飯の店「音の食堂」
その店が営業している唯一の証拠は階段の前に置かれた小さなイーゼルと、それを弱々しく照らす黄色い電球だけだった。
一人で入るには少し勇気のいる店構えだったけれど、口の中はもう既にスープを味わう以外の選択肢は無い、というくらいに唾液が集まってきている。
私はゴクリとそれを飲み込むと、暗い階段に足を向けた。
狭い階段を下りていくと左手に木製の扉があった。
扉はかなり年季が入っているらしく、塗装は至る所剥げていて、僅かに明かりの漏れる磨りガラスも煤けている。
丸いドアノブを回してから静かに開けると……その向こう側にはもう一枚の扉。
扉が二枚? 何だろう……。
二枚目のドアには「営業中」と書かれた札が下がっている。
私は意を決して、重い扉に体重をかけて向こう側にゆっくりと押し開けた。
キィと静かな音を立てて開いた扉の向こうは空気が違っているように思えた。
柔らかなオレンジ色の灯り。
人々の楽しそうな笑い声。
会話の向こう側に流れる緩やかなBGM。
それら全てが柔らかく混ざり合い、扉を開けた途端に巨大なシャボン玉のように私を優しく包み込んだ。
そのざわめきに満ちた柔らかな空間は、今下りてきた薄暗い階段とはあまりに対照的で、一瞬、異空間にさ迷い込んでしまったのではないかと錯覚してしまう程だった。
今日は貸切パーティーか何かだろうか……。
その場にいる人々は皆リラックスしているようで、中には立ちながら杯を傾けている人さえいる。
引き返そうかとも思ったけれど、疲れきった私の足は動かない。
私が扉を開けたまま固まっていると、フロアの中央辺りで佇んでいた男性がふと顔を上げた。
さらりと下ろされた長めの前髪の間から、二つの大きな黒い瞳がこちらに向けられる。
深い闇の奥から射抜くように向けられる眼差しに、私は一瞬息を呑んだ。
少しつり気味の二重瞼に縁取られたそれは、何もかも見通してしまう鋭利さと、全てを包み込んでしまう力強さを合わせもっているように思えた。
男性はこちらに鋭い視線を向けたまま、形の良い薄い唇をゆっくりと開く。
「いらっしゃいませ」
思ったよりも低く穏やかなその声を聞いて、私は初めて男性がこの店の店員なのだという事に気がついた。
でもそうは言われても、この出来上がってしまっているような雰囲気の中には、なかなか入っていき難いものがあった。
けれど、階段を上る気力も体力も私にはもう残っていないのだ。
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