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ココナッツミルクスープと世界の中心 ②
久しぶりに足を向けたそこは、湿った土の匂いがしていた。
空気はまだ身を切るように冷たいというのに、もう春の植え付けの準備だろうか、土起こしをされた畑は黒い塊を寒風にさらしている。
約2ヶ月ぶりに見る大塚さんの顔は相変わらず、彼が作る有機物を多く含んだ肥沃な土をなすりつけたような色をしていて、額に刻まれた数本のひだはピクリとも動かなかった。
「……今までありがとうございました。……そして、色々とご迷惑をおかけしてしまい、本当に申し訳ありませんでした」
私がそう言って頭を下げてみせても、彼は感情のない乾いた顔をこちらに向けたままだ。
ビニールハウスの中とはいえ、まだ春の匂いもすら感じられない2月の初めだというのに、大塚さんの額のひだの間にはキラリとしたものが滲んでいる。
がっしりとした骨太の手が、首にかけられていたタオルで無造作にそれを拭いとっていく。
「あの……」
私はパリリと美味しそうに育っている小松菜に、何とはなしに目をやってから続けた。
「……私も今目の前にある事、一つ一つを大切にして生きていきたい、本当の自分と向き合って生きていきたい、そう思ったんです……」
大塚さんは目の前にある「今」を大切にして生きているように見えた。
土を作り、苗を植え、育て、収穫する。
私がここを訪れると、いつも彼は静かな眼差しで、重労働であろうその作業を黙々とこなしている。
きっと種を蒔いても芽を出さない事もあるだろう。日照不足の年もあれば、雨が少ない年もある。台風なんかが来たら、それまでの苦労が一瞬にして吹き飛ばされてしまうし、農薬を減らしている分、虫害も多いだろう。
それでも大塚さんは諦める事なく、常に目の前にある農作物に真摯に向き合っていた。
今を真剣に生きていた。
「……お忙しい中、お時間を作って頂き、ありがとうございました」
私がそう言って再びお辞儀をしてみせても、大塚さんは沈黙を保ったまま白髪頭を軽く下げ返してきただけだった。
でも、私は彼から何か言葉をかけて貰おうと、ここに来た訳ではないのだ。
そもそも、今現在シノハラフードと契約を交わしている訳ではない大塚農場に、直接挨拶に来る必要はなかった。
けれど、自分の信念を持って今を生きている大塚さんには、キチンと挨拶しておかなければいけない、何だかそんな気がしたのだ。
それとも、大塚さんに告げる事で、私は弱気になりがちな自分に発破をかけようとしているのかもしれない……。
1月一杯で後任者への引き継ぎと残務処理は大体終わった。けれど、溜まりに溜まった有休消化の為、2月末までシノハラフードに籍は残し、今は週に数日出社して、生産者さんへの挨拶回りや後任者のフォローをしている。
今まで月に数日休めれば良いという生活を続けてきたから、急に時間ができてしまうと不安になる。
仕事に追われていないと、世間から必要とされていないのでは……、と心配になってしまうのだ。
ダメだダメだ。私は響子さんや大塚さんのように目の前にある事を大事にしながら丁寧な暮らしをしよう、って決めたんだ。
社畜のような日々とはおさらばだ……。
「失礼します」
自分を支配しそうになる弱音を心の中から振り払うように、私は姿勢を正した。
そして黒い土をスニーカーの足で踏みしめながら、ゆっくりとビニールハウスの出入り口に向かう。
扉に手をかけようとした私の背中に、不意に大塚さんの低くしわがれた声が投げられた。
「……まあ、頑張れよ」
「……えっ?」
慌てて振り返ってみても、既に作業に戻ってしまっている大塚さんの表情は読み取れない。
大塚さんはいつも通り、ただ黙々と野菜に向き合っているだけだ。
「ありがとうございます!」
大きな声でそう言うと、私は大塚さんの骨格のがっしりした広い背中に向かって、もう一度深く深く頭を下げてみせた。
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